リスクに対する構え
今回はしばらく書き続けてきた「失敗・リスク編」の最終回となります。リスクをとるときの構え、備えについての僕の考えを書いてみたいと思います。
七重八重の構え
僕が大学生の頃、兄の孫正義とお茶を飲んで世間話をしていた時、ふとリスクマネジメントについての話になったことがあります(なんで茶飲み話からリスクマネジメントの話になるんだ!?と思うでしょう?(笑)うちはそういう家なんですよね。もちろん堅苦しい言い方はしないんですけど、家族が会うと経営に関する本質的な深い話を普段から結構したりして、僕にいろいろと教育をしてくれました。今になってみるとほんとうにいくら感謝してもし足りないくらいありがたいことだと思います)。彼は僕に「不測の事態に備える構え」について質問をしてきました。

正義「泰蔵、なにかに取り組もうとするとき、不測の事態が起きたときのための備えとしてお前やったらどれくらい構えておけばいいと思うか?」

泰蔵「ええ!?そんなこと考えたこともないんやけど・・・。えーっと、まず、なにかうまくいかなかったときにはこうしよう、という代替案くらいは用意するよねえ。それもだめ、というときのさらなる代替案ってこと!?えー?どれくらい用意しとかんといかんと!?」

正義「要するにお前の構えは一重、やって二重ということやな。それじゃあ足らん。俺の場合は、たいてい四重五重は常に準備している。それでも足りないと思うとき、たとえば大勝負のときなどは七重から八重の構えが望ましいな。」
えええ!?四重五重に七重八重!?
みなさんも普段仕事をしていて、もしなにか不測の事態があったときにはこうしようかな・・・とバックアップを考えておくというのはやりますよね(正直な話、やらないことも多いですよね)。それでやっと「一重」です。一重のバックアッププランでさえ準備するのは結構大変なのに、これがだめだったらこうする、それもだめだったらこうする、それさえもだめだったらさらにこうする・・・という構えを、いつも四つか五つ用意しておくと彼は言ってるわけです。しかも、たまに気が向いた時ではなくて、常にです。正直、ちょっと絶句してしまいました。どんだけ構えとんねん!ってびっくりしました。
この話で彼が言いたかったことは、どれだけリスクを冒して挑戦してもいいけれど、絶対に死んではいけない(復帰できなくなるほどの致命的なダメージを負ってはいけない)ということでした。大きな勝負を仕掛け、派手に負けても、ぎりぎり首の皮一枚つながっていればどうにか生き延びることができますが、「男らしく正々堂々と正面からぶつかって、玉砕したら後は野となれ山となれだ!」なんて勇ましいことを言って猪突猛進で突っ込んでいって、たしかにその時はかっこよくはありますが、でも死んだら元も子もありませんよね。事業を立ち上げるならば何重もの対策を講じておいて、たとえどんな不測の事態に陥っても絶対に致命傷は負わない、という構えを作っておくことが大事ということを教えてもらったのでした。もちろん非常に困難な状況を、岩をも穿つ一念で背水の陣を敷くことによって突破できることはありますし、ここ一番の勝負どころではそういう信念こそが雌雄を決すると思うので、それをまったく否定するつもりはありませんが、毎回毎回そんな悲壮な決意をして仲間に死ぬ気で挑戦させるのは、組織を率いるリーダーとして失格だと思います。死ななければまたいろんな選択肢をとることができるわけで、ベンチャーは絶対に死なないように経営することが大事です。
彼の発言は、これくらいの構えと備えができていれば事態がどう転んでもなんとか切り抜けられる、という経験則なんだと思います。数字に明確な根拠はないけれど、それくらい不測の事態って平気で起こるよ、ということなのでしょう。僕の経験からいっても、当初の想定とはまったく違う展開になった、なんてことは本当にしょっちゅうあります。
ということで、みなさんもぜひそうしてみてください(笑)。といっても無理ですね(笑)。とはいえ、上級者はこれくらいの構えを準備しているということを知っておくのはいいことだと思います。このような構えは僕自身もまだまだこれから研鑽を積んでいかないとまだ到達できないレベルですが、少なくとも、そうしないといけないんだ、ということだけはいつも頭の中には入れています。
経営者は300
ちなみに、同様に僕がびっくりした話ということでいえば、次のような会話もありました。

正義「経営者はありとあらゆることを考えておかなければならないんだ。例えば従業員が自分の会社のことについて『1』考えているとすると、経営者は、数字で言うとだいたいどれくらい考えるべきこと、考えておかないといけないことがあると思う?」

泰蔵「そりゃあ、経営者なんだから従業員よりはたくさん考えとかんといかんよねえ。僕の感覚でいえばスタッフの3倍から5倍は考えることがあるよなって感じやけど、きっと兄ちゃんはそんな数字じゃ全然足りん!と言いたいのだろうから(笑)、『10』とかなんやないの!?」

正義「ばかもん、『300』はあるぞ。」

泰蔵「さ、300!?(><)そんなにあるとー!?こりゃあ経営者はたいへんだ・・・俺に務まるかな」
なんていうやりとりをしたこともあります。 僕の想定とは桁が違ったということでこの数字は僕の中に強烈に残っていて(ほんとに300かと聞かれると僕にはいまだによくわかりませんが(笑)、たしかに5や10どころではなくケタが違うということは確実に言えると思います)、それくらい経営者は自分の会社のことについて様々なことを考えておかねばならないのだといつも肝に銘じています。
また、スタッフがきめ細かく動いてくれず、気が利かないなあとガッカリしたときにも「従業員は1、経営者は300」というこのフレーズを思い出すと「ああ、人のせいにした自分が悪い。もっと自分が動かないといけなかったんだ」と反省することができたりして、自分を戒めることにも役に立っています。みなさんも経営していて「なんでいつも俺ばっかり働いていて、みんなボサーっとしてるんだ!」と愚痴りたくなることもあるかと思います。人間ですから、自分だけがこの世の中でいちばん苦労しているという気持ちになることもあるでしょう。でも大丈夫、経営者は300です。なにが大丈夫かわかりませんが(笑)、みんなそれくらい苦労しているんですよ。自分だけじゃなく、みんなも苦労しているんだとわかればそんなに辛くないですよね。
また、構えや備えという点では、このような話も参考になると思います。
たとえば、どうしても相手を説得して良い条件を引き出したい提携の話がある場合、「先方がこちらの提案を断るありとあらゆる理由」を最低100個以上挙げ、それでも相手が納得して了承してくれる方法について考えた想定問答集を準備するべし、ということも教わりました。ヘリクツや強引な説得ではなく、なるほど、と向こうが心底納得する論理をきちんと用意しないと相手は絶対うんとは言わんぞ、と教えられました。言われてみればそのとおりですよね。でも皆さんは営業に行く時や、誰かを説得して行動やポリシーを変えてもらおうするとき、それほどの用意と準備をして臨んだことがあります?うん、あるよ、という方はぜひそのままお続けください。えー!?そんなコトしたことも考えたこともないよ、という方はぜひ一度、「相手が自分の提案を断る理由」を書きだした想定問答集を作ってみるといいと思います。それを書いてみることによって、これまでいかに自分が自分の都合だけでものを考えていたかがよくわかります。ものすごく勉強になりますよ。
理屈としてわかってるということと、実際にそれを実感して実践することには大きな開きがあります。僕から見て孫正義がすごいと思うところは、そうだと思ったことの実践が徹底しているところです。そこが凡人とは決定的に違う。七重八重の構えとか、300の思考、100の問答など(あと1,000個の経営指標をチェックする「千本ノック」というものもあります)、彼が膨大な数を例として挙げるのは、構えをいかに徹底して作るかを、誰にでも端的にわかるように表現したいからなのです。
世の中でいろいろと言われている成功の秘訣や運を手繰り寄せるテクニックなんていうのは実はたいしたことなくて、結局成否を決めるのは、なにか目標を定めたときにその目標を達成するための行動をどれだけ徹底してやれるかだということが、いろいろな経験をしてわかってきました。若い時からうすうすそうかもなと思っていたのですが、やっぱりそうなんです。そして、実はそれがいちばん難しいんですよね。地道な作業の連続ですぐには目覚しい結果が見えないので、着手しても途中で根気が続かず断念してしまうからだと思います。だからこそ成功事例というのは少ないのかもしれません。とにかく徹底して準備して事に臨む、ということ。これがいちばんの成功の秘訣だと僕は思います。
ということで、上級者はこれだけ構えや備えをしているんだということをここでは知っておくといいと思います。でもこうやって書きながら、そりゃ当然だよな、とふと思いました。スポーツ選手だって膨大な練習をしてるわけだし、職人だって膨大な修行を積んでるわけだし、何だってそうだよな、と。ビジネスだけはそうじゃないって考えるほうが不自然ですものね。
コンティンジェンシープラン
みなさんはこの表題の言葉を聞いたことがありますか?人によっては「コンチプラン」などと略して使うこともあるのですが、コンティンジェンシープランとは、「事件・事故・災害などの不測の事態が発生することを想定し、その被害や損失を最小限にとどめるためにあらかじめ定めた対応策や行動手順のこと」(@IT 情報マネジメント用語事典より)を指します。
実際には、コンティンジェンシープランとしてたとえば次のようなものが作成されます。
- 緊急時における各メンバーの行動指針や行動計画
- 業務や機能の継続・復旧作業の優先順位
- 顧客やマスコミへの対応方針
- 代替設備・業者の用意
- 原因究明、2次被害防止の手順
要は、なにかリスクが発生してからあわてふためいてバタバタと対策を講じるのではなく、事前にリスクをすべて洗い出しておき、そのリスクが発生したらすぐに誰が何をどうする、という手順をあらかじめ決めておくことによって被害を最小限に食い止めようという備えです。
不確実性が高まっている昨今、このようなコンティンジェンシープランを作らずに大きなことをやるのは無謀きわまりないことだということがわかっていただけると思います。具体的な作り方については、ぜひご自分でいろいろと書籍やウェブを研究してみてください。こうやればいい、という黄金律ははっきりいってないので、自分たちの頭で徹底的に考えてリスクへの対応の感性と能力を磨くことこそが大事です。
孫正義が七重八重の構えを講じていると言いましたが、この文脈で言えば、ある事象に対して起こる不測の事態についての7つから8つのシナリオごとにそれぞれコンティンジェンシープランをきちんと策定しているということなのです。これがいかにすごいことかおわかりになりますでしょうか。
みなさんも事業をやるときには、ぜひこういう構えを常に意識しておいてください。意識しているだけでも、意識していないのとはだいぶ違いますので。
リスクについてのまとめ
ということで、これまで何週にもわたって書いてきた一連のリスクマネジメントについてのお話で言いたかったことは、次のようにまとめることができます。
- リスクとは制御可能な危険のことを言い、制御可能な危険以外は冒してはいけない
- リスクをとる際はリスクの評価(失敗時の被害がどれくらいになるかの測定・評価)をきちんと行う
- 一方、リスクを冒したときのリターン(リスクをとらないときの機会損失)もきちんと評価する
- 最終的にはリスクとリターンを天秤にかけ、どちらをとるかを合理的に判断すれば後悔は少ない
- 実行にあたり、リスクに対する構えとしてコンティンジェンシープランをきちんと作成する
この5つがポイントです。見れば至極当然ですが、これをどれだけ徹底して実践できるかが偉大なリスクテイカーになれるかどうかをわける分水嶺だということを強調しておきたいと思います。
リスクをとるときの心構え
最後に、リスクをとるときの心構えについて僕の考えを少々。
何が起こるかよくわからないし不安だからやっぱやめとこう、と何もしないのは簡単です。しかし、そういう消極的な態度、保守的な態度こそが、今ある世の中の様々な問題の根源だと僕は思っています。物事というのは何かをやってもやんなくても、すぐには何かが劇的に変わるわけではないので、 何もしないという選択肢もなんとなく悪くない選択肢のように見えます。しかし、現状はそれほどひどくないからと何もしないでいることこそが一番愚の骨頂である場合も往々にしてあるのです。特に変化の激しい昨今において、今までどおり何もしないほうが良いというのはむしろ不自然なことが多いはずです。
新しいことにチャレンジするのは誰だって不安です。だけど、その不安を不安なままにしておくのではなく、不安材料やリスクを一度徹底的に洗い出してみて、それが起こったときにどんなことになるのかを真摯に見つめてみればいいと思います。そして、それが起こったときの備えや構えをちゃんと準備し、思いきって勝負に出てみる。ダメだ、ヤバイ、とわかったらすぐにコンティンジェンシープランを発動して対応する。こういう姿勢で事に臨めば、ひどい致命傷は負わないはずです。
一方、ビジネスは、 極論すれば、まず一度成功できればいいんですよね。そうすればいろいろなことにチャレンジする余裕ができ、選択肢が広がり、さらに成功する可能性が上がるという好循環に入るんです。その好循環に入るまではすごくたいへんだけれど、一度入ってしまえばそれまでよりは比較的楽に展開することができるようになります(もちろん、それぞれのステージごとに深い悩みはあってたいへんではあるんですが、そもそもなかなか成功できないというのとは別の悩みになります)。
野球に例えるならば、要はまず一発ホームランを打てればいいのです。一発撃つと、その後連発できる可能性が高まるし、少なくともヒットはかなり打てるようになるという感じです。他方で、三振を何回してもまったく責任を問われない。もしそんなバッターだとしたら皆さんはどうしますか?
僕だったら、できる限りたくさん打席に立って大振りしまくります(笑)。だって一発ホームランを打てばいいんでしょう?三振しても責任問われないんでしょう?打率は関係ないんでしょう?だったらとにかくたくさん練習して、たくさん打席に立つことがホームランを打つ最高の方法ですよね。誰が考えてもそういう結論になるはず。打てるかなあ、大きく空振りしたら恥ずかしいしなあ、三振したらどうしよう、などと迷いながら打席に立ってホームランが打てるはずがありません。打席に立ったら腹をくくってボールに集中し、おもいっきり振る。何回もファールや空振りをするでしょうが、それでもめげずにおもいっきり振る。打てなかったら何度でも何度でも打てるまで打席に立ち続ける。これがホームランを打つ最大の秘訣です。 しばらく全然打てなくてもクヨクヨしない。新しい打席が来たらまたフレッシュな気持ちで座席に立つ。これこそがバッターに必要な心構えの極意だと思います。メジャーリーグでいちばんヒットを打ってきたイチローだって10回打席に立っても7回は失敗しているわけです。経営の名人であるユニクロCEOの柳井正さんでさえ、僕のこれまでの事業での取り組みは「一勝九敗」だったとおっしゃっています。
私たちがなにかに挑戦するときに1回や2回の失敗でめげてる場合ではありませんよね。
打席の中でどのボールを打つかを迷うのはまだしも、そもそもあきらめて打席に立たないなんていうのはまったくナンセンスです。
しかし、失敗を怖がってこれまで打席に立ってこなかった人々を責めることもできません。これまでの日本の社会は、空振りしたらかなり恥ずかしい、とか、一度三振したら終わり、みたいな野球しかできないところがありました。また、打席に立ったとしても、失敗できないからといって小さいヒットを狙ってコツンと当てにいくスイングや、スクイズやセーフティバントばかりのチマチマした野球で「ちっともおもろないんじゃあああ!」と関西弁で野次りたくなるような感じであったことは否めません。しかもそれはまだ現在も人々の心理に色濃く残っているところがあります。
でもね、これからは失敗していいんです。何回三振してもいいんですよ。打席に立つ資格さえ失わなければ。打率なんかまったく関係ないです。1回やって1回成功したから打率1.00だと誇る人より、10回やって3回成功した人のほうが、3倍評価されるんです。ビジネスが野球と決定的に違うのは、「何回ホームランを打ったか、どんなホームランを打ったかしか歴史に残らない」、というところです。
だから打席に多く立ったほうがいいわけです。
大振りしていきましょう!
かっとばそうぜ!
結びに、僕が心から尊敬してやまない王貞治氏の言葉を引用して終りにしたいと思います。
努力しても報われないことがあるだろうか。
たとえ結果に結びつかなくても、
努力したということが
必ずや生きてくるのではないだろうか。
それでも報われないとしたら、
それはまだ、努力とはいえないのではないだろうか。 - 王貞治

リスクとのつきあいかた
前々回から前回まで2回にわたってリスクとはなにか、リスクをとるとはどういうことなのか、リスクテイカーとはどういう人なのかについて解説してきました。少しはリスクとは何かを考えるきっかけになったかと思いますが、それがわかったからといって即、偉大なリスクテイカーになれるかというとそうではありません。皆さんがいちばん関心のあるのは、どうやったらリスクをとって大きな勝負ができるようになるのかということだと思いますが、その本質を一般論として描ききることは残念ながらなかなか難しく、極意はやはり経験のなかで痛い目にあいながら体得していくしかないと思います。しかし、そこで終わってしまっては身も蓋もないので、なんとががんばってもう少し掘り下げてみたいと思います。
なにかこれまでやったことのない大きな挑戦をするとき、そこには必ず何らかのリスクが付随します。しかしほとんどの場合、そのリスクが何なのかがわかりません。やったことがないからわからないのも当然ですが(言い換えれば、それがある程度パッとわかるようになるということこそが「経験を積む」ということに他なりません)、とはいえ、ある行動をとった結果どんな被害が起こる可能性があるのかを把握もしないで突っ込んでいくのは非常に危険で愚の骨頂です。ですから、リスクをとるために最初にやるべき事はまずリスクの分析なのですが、モヤっとしている潜在的なリスクをどうやって分析し、把握すればいいのかというコツについて僕の考え方をご紹介してみたいと思います。
フェルメール「天秤を持つ女」 c.1664, National Gallery of Art, Washington, USA
簡単なリスク分析のしかた
リスク分析といってもやり方は非常にシンプルです。なにかやりたいことがあるとして、その行動をとったときに起こりうる「ありとあらゆる悪いこと」「ありとあらゆる機会損失(ある選択肢をとることにより選択できなくなるその他の選択肢の損失の総和)」を全部積み上げてみる、ということをやるだけです。ほんとうにそれだけです。(それだけ!?と思う人は、デシジョンツリー分析とか、モンテカルロシミュレーションとか、リスクの定量分析手法が世の中にはいろいろありますのでぜひ勉強してみてください。まあ、僕に言わせればそれらが実際の現場で使えるかどうかと問われるとちょっと疑問ですが、それぞれの分析手法の考え方というか、基本思想を知ることは今後皆さんの人生に大いに役立つと思いますので、ご興味のある方はぜひ研究してみてください)
例えば、「自分が今どうしてもやりたいアイデアがあって起業したいので、いま通ってる大学を3年で中退して辞めてしまう」という行動をとりたいとします。その時のリスクってなんでしょうか。(念のため言っておきますが、大学を中退しろと勧めてるわけではまったくありませんからね(笑)長い人生なんだから、そんな1年を惜しんで中退しないで、ちゃんとしっかり勉強して卒業しとけば?って 基本的には思ってます。みんなよく言いますが、社会人になってから学生時代あんまり勉強しなかったことを後悔している人はほんとうに多いですから)
まず、危険や機会損失について思いついた順番に書き出し、それを大項目、中項目、少項目と粒度(りゅうど)を合わせながら並べていきます。そうやって思いつくかぎりすべての危険を洗いだしてみましょう。これでもか、これでもか、という感じで。予想だにしないようなことが起こって目も当てられないくらい最悪の事態になった場合までをも想定し、いったいどんな危険があるのか、どんな被害があるのか、それを全部挙げてみるのです。これがあまり出てこない人は、「自分は楽天家だから♪~(´ε` )」と開き直るのではなく、リスク分析能力が磨かれていないと考えるべきです。本当の楽天家とは、死の淵を見つめた上で最終的に楽観的になれる人のことを言います。
そしてリスクを挙げ終わったら、今度はそこに挙げられた危険が自分の人生に及ぼすデメリットはどのようなものだろうか、ということを考えてみます。例えばこんな感じです。
大学を中退するリスク
①卒業しなかったことにより発生すること
- 卒業証書がもらえず、学歴が大学中退という経歴になる
②卒業しなかったことにより発生する機会損失
- 4年生のときに学ぶことを学べないこと
- 「新卒」として大企業への集団就職ができないこと
- 4年生のときに出会うかもしれなかったカワイコちゃん/イケメンに出会えないこと(笑)
③卒業しなかったことによってほぼ確定するマイナス
- 親に「お前をどんだけたいへんな思いをして大学までやったと思ってんだ!」と責められる
- 将来中途で就職することになったとき採用担当者に「なぜ中退したの?」と質問され面倒くさい
- 将来高学歴の女の子とつきあうことになったときコンプレックスを感じる(?)(笑)
もっと他にもあるかもしれませんが、僕が思いついたのはこんなところでした(このテーマについては、僕自身もリスク分析能力が甘いのかもしれません(笑))。以上からすると卒業しなかったことによって発生する機会損失(②)は、「新卒」として大企業に集団就職ができないということと、4年生のときに超カワイイ女の子に出会えたかもしれないというしょうもない(しょうもなくはないか(笑))損失だということがわかりましたし、卒業しなかったことによって発生するマイナス(③)は、親に一瞬ショックを与え不安にさせてしまうことと、夢破れて一旦どこかへ中途で入社しようとしたときいちいち面接でなんで?と聞かれることなどだということが明らかになりました(堂々と「やりたいことがあったので中退して起業に専念した」と言えばいいのです)。
このようにある行動をとった時の一次的な結果(①)、機会損失(②)、マイナス(③)を洗いだすことができたら、次は、その機会損失とマイナスが自分の人生に与えるインパクト(被害)を算定します。ある選択肢をとった結果、失ってしまう選択肢と実際に発生するであろう時間的・経済的被害がどれくらいになるかを、もし定量的に算定できるなら具体的な数字で算出してみます。今回の例の場合はなかなか定量的に算出するのが難しいですが、大企業に新卒で就職した先輩と中退して就職しなかった先輩と両方に、就職してみてどうですか、とか、中退してなにかマイナスはありましたか、など詳細にインタビューをしてみたりすれば、それがどれくらいの被害になるかを具体的に思い描くことができます。それだけでも非常に意味がありますよね。
リスクの評価
さて、洗いだした機会損失と被害の大きさをすべて算定したら、次は、その被害についての「評価」を行います。時間的・経済的被害だけでなく、その被害が自分の人生に与える「影響」や「意味」についての定性的な評価をします。
例えば、自分が大企業に新卒で就職することに感じる最大のメリットは、自分が一人前になるために学びたい知識や積みたい経験を効率よく良い形で経験させてくれることだと考えていたとして、大企業に就職しなかったときそれが自分にとってどんな意味を持つのかを考えてみるのです。具体的には、新人社員研修に始まり、ある部署に新人として配属され、下働きから始めてそのうちある程度の仕事を任されるようになり、そのうち部下がつき、しばらくするとチーム全体のマネジメントを任せられるようになるという、中間管理職の知識とスキルを10年から20年くらいかけて身につける大企業における経験を得られないということが、自分の人生にどんな悪影響があるのか、そういう経験を得られないことが自分の人生にどんな意味を持つのか、について考えてみるということです。OLや航空会社のCA(客室乗務員)との合コンにいったとき「〇〇という企業に勤めてるんだ」と言って女の子が「えー、すごーい♡ヤンエグー☆(ヤンエグって死語かな(笑))」と言われないことが自分の人生にもたらす悪影響や意味は何なのかを考えてみるということですね。
それでいえば、仕事の能力を身につけたりチームをまとめるマネジメント力を身につけたいなら、大企業でちんたら10年から20年かけて学ぶよりも、ベンチャーであればわずか数年でよっぽど濃く早く習得することができます。これはまちがいありません(ほんとうにそうなんですよ。自分でスタートアップを始めた子と、大企業に就職した20代の同年代の子たちとを比較すると能力も意識も精神年齢も天と地ほどの差が開いています)
合コンにおいてだって、学歴や社歴がちょっと見栄えが良かったとしても、中身がスカスカだったりおもしろくなければ女の子は相手にしてくれません。女の子は本能的にそのへんをパッと一瞬で見透かしてしまいます。もちろん、やさしくて力持ちで人柄も良くておもしろくて見栄えがするキャリアであればそれに越したことはないかもしれませんが、だいたい20代や30そこそこの大企業の男の仕事の中身なんてあんまりエキサイティングな内容ではないので(こんなこと言うとまた敵をつくりそうだなあ(笑))、みんなの前でパッと耳目を集めるようなおもしろい仕事の話はなかなかできないと思うし、女の子にウケるギャグや洒落たセンスなどは、仕事とは関係ないところで磨かれる素養ですから、大企業に勤めているということそのものは特にアピールしないと言ってもいいでしょう。
ということで、新卒で就職できなかったからといって別にどうってことありませんし、中途入社の時にだって今どき大学中退だからといって別にそんなにマイナスではありません。必要とされるのは現在どんな能力を持っているのか、これまでどんな経験をしてきたか、だけです。そう考えると中退することが与える人生への影響や意味はなんなんだろうということがだんだん明らかになってくると思います。
いかがでしょう?ただただ漠然と中退することを恐れるのではなく、中退したら具体的にどういう事象が起こり、どんなデメリットがあるのか、まで考えてみれば、実はそれほど大きなリスクがあるわけではないということがわかりますよね(繰り返しますが、中退を勧めているわけではありませんからね(笑)学生にとっていちばんドキドキする大きな選択肢という意味で挙げてみただけです。社会人の皆さんでいえば、転職をするとか、今までとはまったく違う新しい道を歩み出すとかいう時にもほぼ同じような考え方が適用できると思います)。
リターンの分析・評価
一方、ここでやりたいことをやらないで卒業を優先するという選択肢を採ったとします。その場合はどうなるでしょうか。
◯いまやりたいことをやらなかったことにより発生する機会損失
- 大成功して「日本のマーク・ザッカーバーグ」になれたかもしれないチャンスを逃してしまうこと
- そういう人生を選択したことにより得られる様々な体験、人脈を逃してしまうこと
- 同世代や後輩たちを勇気づける素晴らしいロールモデルになれたかもしれないこと
◯いまやりたいことをやらなかったことにより発生するデメリット
- やっぱりあのときやっておけば・・・と一生ずっと後悔する
などが挙げられると思います。「いまやりたいことをやらなかったことにより発生する機会損失」と言いましたが、 実はこれは裏を返せば、「いまやりたいことをやったときの期待リターン」とも言うことができます。つまり、選択しなかったことによる機会損失は、選択したときの期待リターンと表裏一体なのですが、もし皆さんがリスクとリターンを精密に検討したいときには、
- どっちの選択肢をとったほうが機会損失が少ないか、という切り口で検討し、
- どっちの選択肢をとったほうがリターンが大きいか、という切り口でも検討し、
- どっちの選択肢のほうがリスクが小さくてリターンが大きいかを最後に検討する
というやり方をとるといいと思います。一番悩むのは、ある選択肢のほうがリターンは大きいけどリスクも大きく、他方はリスクは小さいけどリターンも小さいという場合です。僕の場合でいえば、実際には、リスクの小さい方を選ぶときもありますし、リターンの大きい方を選ぶときもあります。どういう時にどっちを選ぶのかと言われると・・・うーん、まだ一般論として言えるほどの見極めのロジックは思いついていませんので、これからも研究していきたいと思います。ただ、最近なんとなく思ってるのは、リスクが大きいといってもそんなにたいしたことがないのなら(別に死にはせん、ということなら)、あえてリターンが大きい(リスクが大きい)方を選ぶ傾向にあります。以前書いたように、現在は不確実性が高く(いわゆる「場が荒れている」状態)、そういうときは大きく成功するチャンスが多いからです。また、僕自身いろいろな経験をしてきたので、だいたいの場合において「こうすればこれくらいで可もなく不可もなくいける」というのがわかってきており、大きいリスクをとってもある程度大丈夫になってきたから、というのもあります。
先日、棋士の羽生善治氏からリスクについてのお話を聴く機会があったのですが、非常に含蓄の深いことを言っておられました。
羽生善治氏「もし人生を自動車の運転に例えるとするなら、年齢を重ねるほどアクセルをふんだほうがいいと思います。なぜなら年齢を重ねるとブレーキのかけ方がわかってくるので、ブレーキが効き過ぎる傾向になるからです。」

アクセルをふんでいく、つまり、リスクをどんどん大胆にとっていく、という上記の僕の考えとほぼ同じことをおっしゃっていたのです。まさに我が意を得たり、という感じがしました。プロ棋士として厳しい勝負の世界に身を置き、リスクとリターンについていつも考え続けているからこそ、このような至言がパッと出てくるのでしょう。表現の仕方として直感的に非常にわかりやすく、しかもきわめて本質をつかんでおり、さすがだなと思いました。
話を戻すと、要は、人生の大きな選択のとき、ある行動をとったときに発生するリスクと得られるリターンをきちんと計る姿勢で物事に臨めば、たとえその選択肢でうまくいかなかったとしても、合理的に判断した選択肢なのだから納得できるはずですよ、ということが言いたかったのでした。
ここから先は人それぞれの価値観になりますが、新卒で就職ができないというリスクと「日本のマーク・ザッカーバーグ」になれるかもしれない(この表現がいいかどうかは別として(笑))というリターンとを天秤にかけたとき、皆さんの天秤はどっちに傾きますか?果たして、皆さんは大学中退というリスクをとってでもやりますでしょうか?答えはもちろん皆さんの好き好きで、どちらの選択肢をとってもいいのですが、いずれにせよ、大学中退という選択肢は、中退によって発生するデメリットがmanageable(制御可能=リスクが顕在化してもたいしたことはない)であるという点において、「とることが可能なリスク」であるということがわかっていただけたかと思います。
メメント・モリ
ヨーロッパの古いことわざ(ラテン語)に「Memento Mori」という言葉があります。「死を思え」と訳されるのですが、この言葉の意味は「死を真剣に考えれば、逆に生を真剣に考えることができる」というものです。一度きりの人生を悔いなく生きるためには、死のことをきちんと考えないことには見えてこない、ということなのですが、リスクマネジメントも同じです。最悪のケースを考え、それでもギリギリなんとかなるとわかれば、そして、リスクをとって挑戦した結果リターンのほうがリスクよりもはるかに上回っているということがわかれば、リスクをとる腹がしっかりとくくれます。
大学中退は学生にとっては結構なリスクかもしれませんが、そうはいっても中退したからと言って別に死ぬわけじゃなし、言うほどたいしたリスクではありません。が、これが原子力発電所の場合だと想定外の出来事は人類の存亡を揺るがす大惨事になってしまいかねないわけで、原発のリスクマネジメントは大学生の中退とは比較にならないほどたいへん重要かつ深刻なテーマです。
いま原発の可否について賛成派と反対派とが侃々諤々(かんかんがくがく)永遠に終わらないような議論をしています。皆さんも様々な意見をお持ちだと思いますが、その議論を収束させるには結局、原発のリスク分析と評価をどのように行うかというところに尽きると思います。そもそも、原発がはらむすべての危険とは何なのでしょうか?そして、それらはmanageable(制御可能)な危険、つまり冒してもいいリスクとして扱っていいのでしょうか?さらには、それらのリスクが生み出す被害はどれくらいあるのでしょうか?原発を使わないということの機会損失は何で、原発が生み出すリターンは何なのでしょうか?
そしてそれらのリスクとリターンを比較したときに、いったい天秤はどのように傾くのでしょうか。
このようなリスクマネジメントの観点から冷静かつ客観的な議論がなされればいいのですが、いま行われている議論はいわゆる”apple to appleの比較”(同じ基準で比較する、という意味です。”You can not compare apple to orange. You should compare apple to apple.”という文に由来するビジネス用語で、英語圏でよく使われます)になっていないため、議論が噛み合わず、あたかもイデオロギーの対立のようになりつつあるのは残念なことです。それではいつまでも結論がまとまらず、その結果どちらかがどちらかを押し切る形でしか決着をみないということになり、最終的には日本人を二分することにしかつながりません。 そのような信条的・感情的議論を延々と行うのではなく、リスクマネジメントという観点から同じ土俵で議論をして最善策を導きだすようにするべきだと思います。
この例のように、リスク分析能力は、すべての人が磨かいていかなければならない現代人の素養であるということがおわかりなると思います。リスクについてのリテラシーがないと何か不穏なことがあると異様に恐れたり、逆に深刻な事態にもかかわらず事態を軽視して安穏としたりするようなことになります。専門家やメディアにはこのようなリスクの定量的な分析と定性的な評価を期待したいですし、我々も行政任せ、専門家任せ、他人任せにするのではなく自ら勉強してリテラシーを高めていくことが大切だと思います。
最後に「7つの習慣」というベストセラーを著したスティーブン・R・コヴィー博士の名言を引用して終わりにしたいと思います。
最大のリスクは、リスクのない人生を送ることである。
“The greatest risk of all is the risk of riskless living.” —Dr. Stephen R. Covey

リスクテイカーとは
ビルゲイツさんからのメッセージ
少し昔の話になりますが、ビル・ゲイツさんが1995年に「The Road Ahead(邦題:「ビル・ゲイツ、未来を語る」)」を執筆された時、孫正義に著書を贈ってこられたそうです。その本の表紙の裏にはご自身のサインとメッセージが書かれていたのですが、孫正義はそのメッセージがなによりもすごく嬉しかったと述懐していました。そのメッセージは、リスクについての真髄を短い言葉で見事に表現していて非常に感動的です。


マサ(孫正義の愛称)へ
お前は俺と同じくらい偉大なリスクテイカーだな
意訳すると「俺もかなり大きなリスクをとって勝負して大きなリターンを得て成功したけど、お前も俺に勝るとも劣らないくらい大きなリスクをとって成功してきたじゃないか。そのリスクのとりっぷりを同じリスクテイカーとして心から尊敬しているよ」とでもいうような意味だと思います。
起業家・事業家・経営者にとっては、「偉大なリスクテイカー」という表現はその人の凄さを表す最大級の賛辞なんです。リスクをとってチャレンジし、成功して大きなリターンを得るということがどれだけ難しいかということを彼らは熟知しているからこそ、地位や年齢などに関わらず「リスクテイカー」を心から尊敬しているのです。
偉大なリスクテイカーとは、精密な評価と緻密な計算を司る能力、勝敗を分ける流れやタイミングを察知する感性、失敗を恐れずに勝負をしかける勇気や実行力など、様々な能力や精神力、右脳と左脳のバランスをものすごく高いレベルで兼ね備えている人です。そんなのまるでスーパーマンみたいな人のようですが、そうでなくてはほんとうは大きなリスクをとることはできません。そう聞くと、リスクテイカーってものすごくかっこいいと思いませんか。人によっては「リスクテイカー」っていうと、なんか怪しい人っていうイメージがあるかと思いますが、僕の中ではものすごくポジティブでカッコイイイメージなんですよね。
歴史上の人物でいうなら、桶狭間の戦いで今川義元を破った織田信長なんかはまさに偉大なるリスクテイカーと言えるでしょうね。最悪の事態としては命を失うかもしれないという最大級のリスクを冒して電撃的な戦いを仕掛け、自分たちより何倍も強大な今川の軍勢を破るという大きなリターンを得たわけですよね。 実際、あの戦いをターニングポイントとして大きく天下布武に向けて動き出すことができたわけで、そう考えると若き織田信長はとんでもなくすさまじいリスクテイカーですよね。だから彼という人物もあの戦いも歴史に輝かしく残っているんですね。

リスクテイカーに対する批判
さて、偉大なリスクテイカーの例を二つほどご紹介しましたが、成功時のリターンと失敗時の被害を分析して、大丈夫、いける、とふんだとしても、それでもリスクをとって新しいことに挑戦するというのはほんとうにたいへんなことです。往々にして新しいことというのはそのときの社会の常識からはみ出していることが多いため、ありとあらゆる様々な批判にさらされて何度も心が折れそうになります。ご存知のとおり、批判を恐れずに困難に立ち向かっていくには相当な勇気が必要です。自己責任で一所懸命やってるのに、なんで関係ない人たちからいわれもない批判を受けなければならないのかと思うでしょう。その人もリスクをとって同じ立場で批判してくるのなら真剣に聞く耳も持ちますが、自分は安全なところにいてなにもしないくせに言いたいことだけ言って批判してる、ということが明らかにわかるときは、きさん、なんば言いよるとや!?(福岡の筑後弁です(笑))と腹を立てたくなることがあります。 たとえ誰かが失敗しても、その挑戦を称えることはあっても、それを批判したり「ほら見ろ」などと揶揄するようなことは僕は絶対したくありません。そんなふうに言うんやったら、お前も実際にやってみい!と言いたい。
僕は人間ができてないので、自分のことに限らず、新しいことにチャレンジしている人がそんなふうに叩かれているのを見るとその人以上に腹をたてることがあるのですが、その点、孫正義は違います。
彼は「たとえどんな言われのない批判であれ、あらゆる批判をしてくれる人は、自分が改善すべき点を指摘してくれているありがたい存在だ。批判にさらされて自分のまずい点に気づき、それを改善できたら前よりもっと良くなるわけで、すべての指摘、すべての批判から目を背けないで全部受け入れて学んでいくようにしてる。」と言っていました。
よく「批判を恐れずチャレンジしろ」とか言われますよね。それって「批判なんか気にせず自分の信じる道を突き進め」というような意味で言われることが多いと思いますが、彼にかかると意味が違います。「批判を全部受け入れて参考にしろ」ですからね(笑)どんだけマゾやねん!ってツッコミを入れたくなります(笑)
こうやってあらためて書いてみると、 いやあ、 彼はすげえなあってあらためて思います。僕はなんだかんだ偉そうにこうやってリスクのことなどを語ってますが、やっぱり批判されるのイヤですもん。ちょっと挑発的なコメントなどをツイートしたりしたら、どんなレスポンスが来るだろうかとドキドキしますからね。とっても小心者(笑)。それに比べ、時々彼のツイッターのmentionを見ると死ぬほどバカとかハゲとか(笑)、偉そうなこと言うのは電波つながるようになってからにしろとか(笑)、様々な罵詈雑言や批判のコメントが来てたりして、それでも至らない点を真剣に反省し、平然と批判を参考にしています。どうやったらそんな強いメンタリティを持てるのだろうって思います。 同じひとりの人間として、 そういう点はほんとうにすごい人だなあと思います。
このような境地に至るためには、そうそうのことではへこたれない強靭な精神力や、何を言われてもあんまり気にしない「鈍感力」、何がなんでも石にかじりついてでも必ず志を実現するという固い信念が必要ですが、これは地位や名誉、お金のあるなしに関係ない、一人の人間としての基礎の問題です。
と、自分で書いておいてなんですが、 僕はこういうことが書いてあると、そりゃあそうだし、そういう力をつけたいのはやまやまだけど、どうやってそういう力を身につければいいのさ?とツッコミを入れたくなるので、ただそういう力が必要という理想論にとどまらず、どうやったらそういう力を身につけられるのかということについて自分の考えを少し書いてみたいと思います。
人事を尽くして天命を待つ
まず、これが大前提だと思うのですが、新しいことにチャレンジしようというときは基本的には「楽観的」でないとだめだと思います。そこがそもそも悲観的だとなにも始まりません。
僕はアーティストやクリエイター、スポーツ選手、起業家などなにか創造的なことをしながら新しいことにチャレンジしている人が大好きでそういう人たちとはとても気が合うんですけど、彼ら彼女たちとおつきあいしていると、そういう人たちに共通する気質として「絶対にあきらめない」粘り強さと意志の固さがあります。彼ら彼女たちだって何度も失敗していますが、倒れてもあきらめずに何度でも立ち上がり、成功するまでとことん挑戦するからこそ最終的に成功しています。ここまでは、まあいろんなところでよく聞く話だと思いますが(以前「失敗について」という回でそのことについての僕の考えを書きましたので興味のある方はお読みください)、ここで僕が強調したいのは、そのあきらめない姿勢の背後には「失敗してもなんとかなるさ。また挑戦すればいいんだから」という、いい意味での楽観的な気持ちがあるということです。 字面だけを見ると、あまり緊張感のない、お気楽な、ともすれば自分に対して甘い感じのように見えるかもしれませんが、しかし彼ら彼女たちにはそういう楽観的なところが必ずあります(実はそれには理由があるのですが、それはこの後読み進めればわかります)。
とはいえ、「楽観的になろう!」といくら掛け声のように唱えたところでなかなかそうはなれませんよね。目の前に厳然と不安があるのに、その不安から目をそらして気が楽になったところでそれはまったく本質的な解決になってないと思いますし、「大丈夫、大丈夫!」と自分に言い聞かせてさえいれば楽観的になれるんだったら世話ないわー、と思ってしまいます。
ではどうすれば楽観的になれるのでしょう。その答えに至る前に、まず自分の心に関して知っておくべきことがあります。それは、
自分に対しては嘘をつけない
ということ。いくら「大丈夫。なんとかなるさ」と自分を思い込ませようと思っても、疑念があって心の底からほんとうに大丈夫だと思ってないものを信じることはできません。他人に対しては、ひょっとしたらごまかしが効くかもしれないけれど、 自分自身は絶対ごまかせません。ではどうすればいいのでしょうか。
ほんとうに心の底から楽観的になるためには、
今挑戦していることに対する準備をとことん突き詰めるしかない
と僕は思います。あらゆるリスク分析をし尽くし、あらゆる対策を講じ、あらゆる努力をし尽くしたときに初めて、「もうこれ以上やれることがないくらい努力した。ここまで努力したのだから、たとえうまくいかなくてもこれが今の自分の限界だと納得がいく。そう思える今自分の心は晴れやかだ。」という境地に至れます。
昔から「人事を尽くして天命を待つ(人間の力としてできる限りのことをして、その結果はただ運命にまかせる、という意味)」と言いますが、まさに人事を尽くすことでしか、最終的には楽観的になることはできないと思うんですよね。
とはいえ、突き詰める作業というのは相当しんどいです。 弱い自分の心に常に向き合わなければならないし、 何をどこまでやれば人事を尽くしたことになるのかなかなかわからないし、時間や経済的な制約などあらゆることを言い訳にしてしまいがちです。それが簡単にできるんだったら苦労はないというか、それがなかなかできないから、私たちは日々苦しみもがいてるわけです。では、どうすればいいのでしょう。
どうやったら人事を尽くすことができるのかという問いは、どうやったら突き詰め続けるモチベーションをキープできるのかと言い換えてもいいと思います。このことについて、僕なりにこれまで長年いろいろと考えてきましたが、それは、やっぱり次のような結論しかないと思います。
自分はなにがしたいのか、自分がやろうとすることの意味はなんなのか、ということを哲学する
結局、楽しいことばかりではない突き詰めるという作業をやり続けるためには、これでしか動機付けはできないと思うんです。こんな不安で苦しい思いをしてまで、やるぞ!と決意する根源的なモチベーションは、「なぜ自分はこのテーマに取り組むのか」というところからしか生まれないと思うんですよね。
どんな偉業を成し遂げた人でも、それを始めたきっかけをおうかがいしてみると、最初は「おもしろそう!」とか「やってみたい!」という単純な動機からということが多いんですが(動機が単純だからといってダメなことはなく、むしろ興味を持ったらやってみるというフットワークの軽さはとっても結構だと思います)、偉大な人たちは、やっていくうちに単におもしろいということに満足せず、より高い目標を持つようになり、その目標を達成するために尋常ならざる努力をし始めます。大きな壁にぶつかって時には悩み、時には憤り、時には心が折れそうになりながら、艱難辛苦(かんなんしんく)の果てに壁を乗り越えていく。そういうプロセスを繰り返していくうちに、なぜ自分はこんな思いをしてまでこれに取り組むのかと自ずと哲学するようになります。そうして当初のおもしろいという単純な動機から自分が実現したい夢や志が生まれ、経験を積んで視野が広がるにつれてその夢や志はさらに高度で高尚なものへとアップグレードしていきます。
自分がやっていることに手応えを感じ、自分に自信がつき、自分がなにをする人間なのかをはっきり自覚し、やがてたとえどんな困難があろうともさらなる高みを目指そうと腹をくくれるようになる。そうやって常に自分の生きる意味を問うことでしかモチベーションは保てないと思うんです。
夢と志の違い
ここで夢や志と言いましたが、実は夢と志は大きく異なります。夢は「将来プロのサッカー選手になってプレミアリーグの試合にスタメンで出場したい」とか「宇宙飛行士になって宇宙を飛びたい」みたいにその人個人が思い描く最高の理想の状態のことを言いますが、一方、「志」という言葉には単なる「夢」とは違うニュアンスが入っていそうです。「志」という言葉から思いつく事例としては例えば、坂本龍馬が幕末に命を賭して薩長連合の説得を計ったことなどいい例だと思いますが、これを「坂本龍馬の夢」というとちょっと違和感があり、「坂本龍馬の志」と言うとしっくりきます。では夢と志の違いっていったいなんなんでしょうか。
結論を言いますと、夢はあくまでも個人的な願望であり、志はそこに社会的な意義を重ねたものを言います。たとえば「将来プロサッカー選手になって活躍したい」という夢を持った少年が、大きくなって実力をつけ、プロサッカー選手としてデビューした後いろいろな経験を積むうちに視野が広がり、最終的に「世界最高峰のリーグで様々なノウハウを学び、それを自国に持ち帰って自国のサッカーのレベルを上げ、貧困にあえぐ多くの子供達に夢と希望を持たせたい」という目標を持つようになったとき、それは個人の願望が社会的な意義を帯びて「志」へと転化しています。つまり、志とは、自分の願望に社会の大義を重ねあわせることによって単なる自分の欲望をなにか実現に値する価値のあるものへと昇華させ、その価値の実現にむけて自分の人生を捧げるというコミットメント(決意表明)なのです。
ちなみに孫家ではよくそれを「究極の自己満足」と言い換えて使います。「自己満足」という言葉には自分さえよければいい、というニュアンスがあって普通は決して良い意味では使われませんが、その自己満足も究極まで突き詰めると、自分さえよければいいというのでは満足できず、自分の愛するまわりの人々もハッピーな方がいいし、もっといえば社会全体がハッピーな方がいいに決まってる、そうじゃないと満足できない、となり、「志とは社会性を帯びた己の夢である」という意味が「自己満足」という言葉のネガティブな意味によって逆説的に非常に際立って浮き上がるため、よく好んで使います。
話を戻すと、自分はなにがしたいのか、自分がやろうとすることの意味はなんなのか、を哲学するということは、自分個人の欲望や願望を明確にしつつ(欲望それそのものは、それが邪悪なものでない限り、否定する必要はないと思います。欲望そのものは自分が生きる原動力でもあるので)、それが社会においてどのような意味・意義を持つのかを考えるということに他なりません。そういう問いを発し続け考え続けることによって初めて、目標の実現のためにすべてを捧げる覚悟が生まれ、 矢折れ刃こぼれ命尽きようともなにがなんでも実現するぞという岩をも穿つ固い信念が生まれるのだと思います。すなわち、
自分の哲学を「志」のレベルまで高めていく
ことによって決意が固まり、腹をくくることができ、自分の生きる道が定まるのです。
論旨をまとめますと、新しいことにチャレンジするためには楽観的でなければならないが、真に楽観的になるためには人事を尽くさなければならず、人事を尽くすことができるようになるためには「自分はなんのために生きるのか」と哲学し続けるしかない。そして、自分の哲学を「志」にまで高めていくことができればそれは揺るぎない信念に変わり、成功するならやるけど成功しないならやらない、というレベルのことではなく自分の人生を生きる意味そのものになっていく、というのが結論です。
ここまでお話をしたことで最終的に言えることは、リスクテイカーとはすなわち、細心の注意を払いながら大胆にリスクをとって大きな志に邁進する人である、ということです。そうやってふりかえってみると、ビル・ゲイツさんが同志(まさに文字通り同じ志を持つ者ですね)である孫正義に「お前は俺と同じくらい偉大なリスクテイカーだな」と賛辞を送り、孫正義がすべての指摘・批判を受け入れて学ぶようにしていると言ったこの二つのエピソードは、いつまでも僕の心の中で燦然と輝き続けることでしょう。
僕もいつか、大きな志の実現のために、たとえ巨大なリスクであってもそれをとる必要がある時には勇気を持って一世一代の大勝負を仕掛けて成功させ、彼らのような偉大なリスクテイカーと同じ次元で話ができるようになれたらと思っています。もちろんそのためにはまだまだ未熟でいろいろな研鑽を積む必要がありますが、腹をくくって挑戦するその覚悟はすでにできあがっています。
みなさんにも誰か一人くらいは尊敬する方がおられると思いますが、その方々もかならずどこか大事な勝負どころでは大きなリスクをとって果敢に挑戦されたはずです。その方々が具体的にどういう状況で、どのようなリスクをとって、どのような勝負を仕掛けたのかを細かく研究してみるといいと思います。そういう偉大なる先人たちの行動を研究することによって私たちはとても多くのことを学べますし、なによりも、その尊敬する方々のことがますます尊敬でき、ますます好きになることができます。
僕にもたくさんそういう方々がいます。めげそうになったときその人のことを思うと胸が熱くなり、また明日からがんばるぜー!と生きる気力が湧いてきます。それこそが心が折れそうになったときの唯一の支えではないかと僕は思っています。
Q:これからプログラマーとして就職したいと考えているのですが、就職する場所は日本全国で考えてどこが魅力的でしょうか?
質問ありがとうございます。
大事なのは就業場所じゃなくて、どんな会社に就職するか、もっといえばどんな仕事に従事するかこそがいちばん大事です。世界的に著名なソフトウェアアーキテクトである中島聡さんのインタビューはとても参考になると思うので、ぜひご覧になってみてはと思います。

経営者が熱い思いをもって「うちはこういう会社なんだ」と明確なヴィジョンを打ち出しているところに、自分がその思いに共感できる会社に行くべきですよ。
「大企業に入れば安心」という考えはもう捨てるべきです。まだしばらく時間はかかるだろうけど、確実にビジネスは次のフェーズに移りつつある。20年、30年のスパンで考えたとき、ヴィジョンをもたない会社に入ると、必ず後悔することになります。
これは多くの聡明な人たちが最近みんな口をそろえて言っていることでもあります。
リスクについて
前回は失敗についてという話をしましたが、その話にちなんで、今回は失敗と隣り合わせの「リスク」についてお話してみたいと思います。ほとんどの人がリスクという言葉を、その意味するところをあまり知らずに無自覚に使っていると思いますので、このわかってるようでいまいちわからない「リスク」について解説に取り組んでみようと思います。これから数回のエントリを読めば、リスクという言葉とそれが表すものについてパッと目が開かれるような思いになることうけあいです。
「リスク」と「危険」の違い
みなさんは「リスク」という言葉をふだんどのように使っているでしょうか。「いやあ、それって全部パーになるリスクが高いんじゃないの?」とか「こんなに発注したら売れ残って在庫がかさむリスクがあるよ」とか、日本語の「危険」という言葉にそのまま置き換えてもいいような同義語として使っているのではないでしょうか。ビジネスにおいて経営者が「リスクをとる」などというふうにこの言葉を使うとき、単純に危険(danger)という意味で使っているわけではありません。では、どういう意味で使っているのでしょうか。
ズバリお答えします。「リスク(risk)」とは、「制御可能な危険(manageable danger)」を指します。危険の中でもコントロールしやすい、管理可能な危険だけをリスクと呼ぶのです。数学的に言えば、「リスク(A)は危険(B)の部分集合(A ⊂ B)」になります。

ちょっと硬い言い方になってしまいましたが、要するに、「失敗して被害が出たとしてもなんとか立て直すことができて、致命的なことにならないということがわかっている危険」だけを「リスク」と言い、「失敗したらどうなるかわからない、被害の程度も及ぶ範囲もまったく予測不能」というようなものはリスクとは言いません。それはリスクではなくて単なる危険です。つまり、リスクというのは危険の中でも御しやすい良質な危険のことをいうのです。
失敗してもそこで発生する危険をコントロールでき、被害をきちんと制御できるからこそ、その危険を冒してもかまわないのであって、制御できないときはその危険は冒してはならない。制御可能とはいえ普通は冒すべきでない危険をあえて冒してでもとりたいリターンがあり、リターンが得られる可能性のほうが危険の発生する可能性よりもうんと高いときにだけ勝負をかける。経営者はそういうふうにして「リスクをとる」のです。
繰り返しになりますが、大きなリスクは、ここ一番の勝負どころではとってもかまわないけれども、想定外のことが起こったときに被害がどうなるかわからないような危険は絶対にとってはいけません。 英語で”at your own risk”(日本語では「自己責任で」と訳されます)という言葉がありますが、「制御可能=責任がとれる」からこそ、そのリスクをとってもいいということですね。
日本語で「石橋を叩いて渡る」という慣用句があります。辞書などを引くと「石でできた固く頑丈な橋はじゅうぶん安全なのに、さらに安全を確かめるために叩いてから渡る、という意味で、『世渡りは用心深く慎重に』という教訓として用いられるが、あまりに用心深く慎重なのも考えもの、と皮肉や揶揄を込めて使われることも多い。」と書いてあります。たしかに、あまり慎重に事を運びすぎると、現代において最も重要なファクターのひとつであるスピードが損なわれるという側面があるので、このクリシェ(濫用の結果目新しさが失われた常套句)が皮肉や揶揄を込めて使われるというのもよくわかります。しかし、もし僕のリスク意識からこの慣用句を自分流にアレンジするならば、「石橋は叩いてもそうそう渡らない。しかし、渡るときはダンプカーでドカーンと一気に渡る」というふうに言いなおしたいと思います(笑)僕の言いたいことのニュアンス、なんとなく伝わりますでしょうか。
不確実性の海をサーフィン
さて、これが僕の説くリスクの定義なのですが、ここでとても大事なことは、リスクをとって挑戦するためには、そのリスクがどれほどのものなのかをちゃんと評価しておかなければならない、すなわち、失敗時の被害がどれくらいになるかということをきちんと測定・評価できていなければならないということです。「被害の測定・評価がきちんとできてないのにおいそれとリスクをとってはいけないというのは、そんなのあたりまえじゃん」とみなさん思うでしょうが、実際にはこの被害の測定・評価がものすごく難しいんです。人は往々にして失敗時の被害を甘く見ていることが多く、リスクについてまちがった評価をした結果、とりきれないリスクをとってしまって大火傷をするんですよね。失敗にはいろいろな原因がありますが、ほとんどの場合、最大の失敗の原因はリスク算定・評価の失敗に起因することが多いんです。
よく「想定外」という言葉が使われたりしますが、なにか大きなリスクをはらむような挑戦をする場合、ほんとうは想定外なんてあってはいけない(徹底的にあらゆる可能性を想定しておく)し、そもそも想定外のことが発生するような危険は冒してはいけないんですよね。それでも最近「想定外の大惨事が起こってしまった」というニュースをよく見かけますが、ほとんどの場合その当事者たちは 当然「リスク管理」という言葉を知っているし、 リスク分析がずさんだったたわけではなく、多くの専門家や有識者を交えて膨大な時間を費やして議論や研究をしていたにもかかわらず「想定外」のことが起こってしまってることが多いんですよね。つまり、それくらいリスクの測定・評価は難しいということなんです。
しかも近年は特にリスクの算定・評価はますます難しくなってきていると言われており、社会全体の危険の高まりを意識せざるを得ません。理由はいろいろとあると思いますが、最も大きな要因は、世界的な情報ネットワークの発達によりプラスの情報もマイナスの情報も昔に比べて範囲が非常に広範に及び、またその伝播のスピードもほぼリアルタイムに近くなったことによって、世界全体の不確実性が増していることにあると思います。
金融の世界でよく使われるのですが、「ボラティリティ(volatility)」という言葉があります(「市場の変動性(market volatility)」などという使い方をよくします)。ボラティリティとは端的に言えば、変動の振れ幅(ボラティリティが高い=変動の振れ幅が大きい)のことをいうのですが、今という時代は昔に比べてボラティリティが高くなっていると一般的によくいわれていて、世界はものすごくプラスにもマイナスにも振り回される傾向にあります。マクロ経済で言えば、リーマンショックしかり、ギリシャショックしかり、株式市場でも株価が高騰したり大幅に下落したり、企業や個人においてもスキャンダルが次々に明るみになったり、「ショック」という言葉が頻発するような事態がもはや常軌化しつつあるともいえるでしょう。
現代という時代は、不確実性が増して先が見えにくくなり、社会も生活も不安定になり、ボラティリティが高くなって毀誉褒貶が激しくなっている、そんな時代です。
そのような状態にある現代を、僕はあえていまネガティブな言い方ばかりしましたが、ふと見方を変えてみれば、リスクをとって新しいことにチャレンジする新参者にとってはすごくチャンスがあり、ゼロからスタートした人が一夜にしてスターダムにのし上がったり、ベンチャー企業が数年で世界をガラっと変えるような大成功を収めることができる可能性が以前よりもぐっと高まっていると捉えることもできます。
つまり、世界は 良くも悪くもめっちゃ 混沌としたカオスのような状態にあり、山(最高の価値)だと思っていたものが谷(最低の価値)になり、谷底だと思っていたものが山になる、そんな下克上のようなことがしょっちゅう起こる時代を迎えたと言えるでしょう。
よくプレゼンテーション資料などで、ビジネスの目標とする山の頂を目指してがんばる!という、

こういうクリップアートを見かけますが、これがしばらくすると山頂じゃなくて谷底になるかもしれないよ、ということなのです。なので今後はこういうクリップアートをプレゼン資料などに使ってはいけません(笑)
冗談はさておき、山が谷になり、谷が山になる、それが頻繁に繰り返されるような変化の激しい不安定な状態を自然界の現象で例えるなら何でしょうか。それは波ですよね。これは田坂広志さんに教えていただいたアイデアなのですが、これからの時代を楽しくやっていくコツをうまく伝えるには、目標に向かって山を登るという登山のメタファー(比喩)よりもサーフィンのメタファーのほうがうまく伝えられそうです。これからの時代を生きていくなら、クライマーじゃなくサーファーになろうぜ、ということです。
これからの時代を生きていくにあたりどういうスタンスでいればいいか、ということについて田坂さんに教わった「波乗り戦略思考」の要点をここに抜粋します。詳しく知りたい人はぜひ彼の著作をお読みください。どれもマジで超オススメです。
波乗り戦略思考
- 波乗りによって向かうべき方向を定める(ゆるやかなビジョンを描く)
- 乗っている波の刻々の変化を感じ取る(環境変化を刻々に把握する)
- 刻々の波の変化にあわせて瞬時に体勢を変化させる(経営戦略を迅速に修正する)
- 波と一体となって目指すべき方向に向かっていく(経営戦略を柔軟に実現する)
こういうやり方で物事を進めたほうがうまくいくよ、という教えなのですが、このやり方は、字面だけを見ると、これまで良しとされてきた、きちっとしたやり方に比べてゆるーく節操無くやってるように見えるかもしれません。しかし、これは単にゆるく節操なくやることとは全然違います。まさに今、このやり方を科学的な手法を用いて徹底する経営手法が少しずつ開発されており、その効用が明らかになりつつあります(実はそれを「リーン・スタートアップ」というのですが、その話題はまたいつかあらためて解説したいと思います)。
ともかく、これからの時代を楽しくやっていくためには、サーフィン同様「粘り腰」がいちばん大事です。身体が硬いと、体幹が弱いと、つまり粘り腰じゃないとうまくサーフィンはできませんよね(と語れるほど実は僕サーフィンをやったことないんですけど、最初からいきなり立てたことが自分のなかでプチ自慢です(笑))。粘り腰を鍛えるために、ぜひビジネスパーソンとしての柔軟体操と体幹トレーニングを行っていきましょう。環境変化に柔軟に対応できる力と、変化があろうとも芯はぶれずに本質を追求する姿勢の両方を鍛えるのです。
「ビクビク」より「ワクワク」
さて、今という時代は変化が激しく波のように不安定で、しかもその波はだんだん高くなってきているというふうにを解説してきました。これは、我々が生きる情報社会の本質的な特徴であり、決して目先の表面的な変化ではなく、世界全体をとりまく中長期の大きなメガトレンドですが、実はこれこそが、 情報革命のひとつの大きな成果だと僕は思っています。
これまで社会は、階級や企業のヒエラルキーが固定されていて入れ替わりが少ない、安定はしているかもしれないけど新しい発想を持つ人間にとってはある意味つまらない社会だった、と言えますが、これからは権威や資金の多寡に限らず、新しい良いアイデアがあればあっという間に世界中に伝わって、世の中がダイナミックに変わっていくような、そんなワクワクする時代になりつつある、と僕は思うのです。
革命という言葉は、辞書を紐解いてみると、「革命とは、被支配階級が時の支配階級を倒して政治権力を握り、政治・経済・社会体制を根本的に変革すること」(大辞泉)と書いてあります。要するに、権力が急速にある人たちから別の人たちに移る(パワーシフトが起こる)ということです。昔は、みんなが知るべき重要な情報を一部の権力者が握り、一般の人々はそれを知りたくてもなかなか知ることができませんでした。また、みんなが知るべき情報を真っ先に知り得たとしても、一般の人々にはそれを広く伝える術がありませんでした。それがインターネットのおかげで状況は一変し、今や誰もが世界の情報をかんたんに受信でき発信できるようになりました。それにより一部の権力者が情報を握ったり(握りつぶしたり)することができなくなり、もはやあらゆる分野で既存の権力者は昔のように自分の都合のいいように世の中を操作することが難しくなりました。これはすなわち、情報を受信したり発信したりすることについて権力の主体が一部の権力者から一般の人々に移ったということを示しており、 まさにこれこそが情報革命の「革命」という言葉が使われるゆえんだと思います。18世紀に産業革命が起こって資本主義が生まれ、19世紀にフランス革命などの市民革命が起こって民主主義が生まれましたが、この21世紀の情報革命はそれに勝るとも劣らない大きなインパクトを持つと言われる理由はここにあるのでしょう。

なにが言いたいかというと、情報革命により世界全体は透明になってきたのです。その結果、良くも悪くも、あらゆる不安な情報やスキャンダルはいつでもどこでも飛び交うことになり、良いアイデアや良い人の存在もあっという間に世界中に広がるようになってきました。
では、そんな世界の中でこれからどう生きていけばいいのでしょうか。不安ばかりを気にして、「ああ、不安定で嫌な時代だなあ、明日はどうなることやら」と不安がってビクビクしながら生きるか、「混沌としたカオスのような状態で変動の振れ幅が大きいってことは、 下克上ができるチャンスじゃん!やったるでー!」とポジティブに捉えてワクワクしながら生きるか、二つの生きる姿勢は、後々大きな差になって出てくるでしょう。 目先の安定はいつまで続くかまったくわからないし、逆にそこに拘泥していると、そこがどん底になるかもしれないわけです。 そういう時代が続くのなら、そしてそれが自分だけじゃなく世界中の誰もがそういう時代を生きていかなければならないのなら、目先の安定を求めてビクビクしててもしょうがなくないですか。ビクビクするよりワクワクするほうがずっといいですよね。(太字には深い意味はありません。ビクビクとかワクワクとか単に言いたかっただけです(笑))
と、こんなことを書いているうちにふと中山美穂さんの「WAKU WAKUさせて」を思い出したので、歌詞を見てみたら、なかなか素晴らしくて感銘を受けました。「WAKU WAKUさせてよ 地味っぽい顔はやめて DOKI DOKIさせてよ 生き方を派手にしなよ みんな友だちじゃないの 他人行儀はよして もっと近くにおいでよ 息が触れあうくらいにね」・・・これって僕らをたきつけてる!(笑)それをアイドル絶頂期の中山美穂に歌わせて、表面だけとりつくろってる男の子を挑発させた作詞家の松本隆さん!すごいなあ。さすがだわ。
閑話休題、今回の要旨をまとめてみたいと思います。
- リスクとは制御可能な危険のことをいう
- リスクをとるにはリスクの評価(失敗時の被害がどれくらいになるかの測定・評価)が大事
- 世界は不確実性が増し、変動の幅が大きくなり、プラスにもマイナスにも大きく振り回される
- この傾向は現在進行している情報革命の最たる特徴のひとつであり、ある意味成果である
- これからの時代はサーフィンのように柔軟に粘り腰で目標を達成していくやり方がよい
- 不安ばかり気にしてビクビク生きるより、これはチャンスだとワクワクして生きるほうがよい
- 中山美穂はすごい
今回は導入編だったので、次回もリスクについてもう少し掘り下げてみたいと思います。
メザシも先日手に入れたこの皿に置いたら豪華な一品になった。
失敗について
若者の不安
先日ある大学の講堂で行われたパネルディスカッションに出たときのこと(下の写真は開催前の雰囲気)。新進気鋭の4人のベンチャー起業家がさまざまな質問に答えるというセッションがあり、いろんな質問を壇上からうかがいました。そのとき一番前に座っていた活発で積極的そうな女子学生がはい、と手を上げて「皆さんにおうかがいしたいのですが、皆さんがこれまでに経験した最大の失敗ってなんですか?もしよろしければ目もあてられないようないちばんひどかった失敗を教えてください」という質問をしました。
その質問に対して会社の経営で手痛い失敗をした話をした人もいれば 、火事で家が全焼しすべてを失ったけど、家財道具など失ったモノそのものよりも、それをきっかけにギクシャクした人間関係やこれまでの思い出を失ったことの喪失感など精神的な落ち込みのほうがひどかった、という悲惨な話をおもしろおかしく「すべらない話」にして話した人もいました(さすがです)。
並び順的にたまたま僕は一番最後に答える順番でじゅうぶん考える時間があったので、過去の数ある失敗の記憶を思い出しながらそのなかでどれがいちばんおもろくて聴衆のためになるだろうか、と彼女の反応や表情などを見ながらいろいろ思いを巡らせていたのですが、ふと、そもそもなぜこの子はこんな質問をしたのだろうか?と疑問に思いました。
それで、僕の順番がまわってきたとき僕はこう答えました。「僕にも山のように失敗はいっぱいあるのでなんぼでもお話ししてさしあげようと思うけれども、まずその前にあなたに聞きたいのだけれど、あなたはなぜそういう質問をしたの?その意図を教えてくれればより的確な答えをできると思うから逆に質問してるんだけど」
すると彼女は少しためらいながらこう言いました。「私も将来なにか新しいことを自分でやってみたいなあと思ってるんですけど、その反面失敗がすごく怖いなって思うんです。それでためらっているようなところがあって・・・。私が驚くようなみなさんのひどい失敗談を聞いて、それでも大丈夫なんだってことを確認できれば、少しは私もやれると思えるかなと思って・・・(一同笑)」
僕はなるほど、と膝をポンと打ちたくなるほど得心がいく思いがしました。
「そうか、失敗が怖いんだね。そりゃあたしかにそうだよねえ」とこちらが同意を示すと、彼女はこくりとうなずきました。「みなさんもそうですか?失敗って怖いなって思う?」と聴衆全員に問いかけるとそこにいた学生ほぼ全員がうん、とうなずきました。
「そうだよね。失敗は怖いよね。僕も失敗が怖くないかと問われて怖くないといえば嘘になるし、そりゃあ絶対いやです。実際、あちゃーって目を覆いたくなるような失敗をいっぱいしてるし、あんな思いをするのはいつも二度と嫌だって思うもん(笑)みなさんの顔を見るとこのことに大いに関心があるようだから、僕の個別の失敗体験を話すのもいいけれど、失敗ということそのものについて少しお話ししてみようと思います。」
と言って、次のような話を始めました。
失敗について
「質問してくれたあなたとみなさんにまず申し上げたいのは、『失敗しようと思ってもなかなか大失敗なんてそう簡単にできない』もんなんだよ、ということ。これは良くも悪くもそれが現実なんだけど、まだ皆さんたちは社会で信用をなにも築いてないまっさらな状態なので、たとえば事業をやるためのお金を借りたい、もしくは投資してもらいたいと思っても残念ながら第三者からお金を調達することはたぶんほとんど難しいと思います。また、失敗したらとりかえしのつかないようなものすごく大事な仕事をパートナーとなる企業がみなさんたちに任せるようなこともまだないです。人は実績を少しずつ積み上げることによって信用を築いていくことができるわけで、もちろんその信用はなかなかうまくいかないときに不義理をしたり誠意のない対応をしたりすると一瞬でパーになったりするわけで、そういう着実な信用の積み重ねのなかでだんだんお金や仕事をみなさんたちに少しずつあずけて任せてくれるようになるんだ。ということは、みなさんたちがどれだけ「俺はめいっぱいリスクを取ってチャレンジしてるぜー!」と思ってやったとしても、そしてそれを派手にしくじったとしても、そもそもたいしたお金や仕事をみなさんたちにあずけていないので、みなさんたちにも周囲の人達にもそんなにたいした被害は出ない。最初はそういうものなんだ。だったらそれを逆手にとって、自分たちにできることをなにも失敗を恐れることなくおもいっきりやったらいいんです。おもいっきり。自分たちが考えられる最大限をどかーんと派手に。失敗したってそもそもたいした被害がないんだから。たいした被害がないのに何を恐れることがありますか?どうです、そう考えれば少し気が楽になりませんか。」
彼女も含めた聴衆は、わかったようなわからないような、はあ、という反応でした(笑)社会人なら僕が言いたいことはなんとなくわかってもらえると思うんですが、まあ、社会人経験がない人はそういう反応になるのも無理もないかもしれません。
「ちょっとピンと来ない人もいるみたいだから、こんなわかりやすいたとえ話をしてみたいと思います。人生って言うのはスーパーマリオみたいなもんなんです。1面をクリアできるようになってからやっと2面、2面をクリアできるようになってからようやく3面、というふうに段階をおってだんだん高いレベルの仕事ができるようになるもんなんです(この後詳細を説明したのですが、この内容は前に記述したのでここでは割愛します。詳しくはこちらのブログの「人生はスーパーマリオ」の章を参照してください)。なので、まず自分たちにできるちょっと無理めかなあと思える最大限の挑戦をすればいい。そして目の前の高い階段を一段ずつ乗り越えていくように一所懸命がんばっていれば、しばらくたってふと気がついて後ろを振り返ると、おおだいぶ上まで来たなあ、と自分が歩んできた道のりの高さに気づく。そんなもんなんですよ。」
そして一呼吸おいてこのように続けました。
「さらに言いましょう。みなさんに絶対失敗しない極意を教えてさしあげます。え!?そんなのあるの!?と思うでしょう。なんだと思いますか?」
聴衆は皆しーんとしていました。
「それは、どんなにひどい状況になっても『失敗した』と思わないことです。自分が『失敗した』と思わなければそれは失敗ではないんです。なんだかヘリクツか禅問答のように聞こえますかね(笑)いいえ、僕は大マジメに言ってまして、これは松下幸之助さんの教えなんですけれども、僕はこれこそが失敗に関する至言だと思います。この教えを実践している僕はほとんど失敗がありません。まったくの失敗知らずです(笑)なぜかというと失敗したわけではなく『一時中断』だと思ってるんですよね。たまたま今回精一杯チャレンジしてみたけどうまくいかなかった、予算が尽きた、人がいなくなった、など諸般の理由によりやめざるを得なくなりもうこれ以上挑戦ができなくなったとしても、その状態イコール失敗ではなく、あくまでも一時中断だと言い張る(笑)もう二度と自分の生涯においてこのテーマについてチャレンジしない、金輪際二度と考えない、というときはこれは失敗だったと結んでもいいと思いますが、まだあきらめるつもりはない、別の方法論をとってでもいつか再チャレンジするぞ、と思ってるならばそれは失敗ではなく、あくまでも『一時中断』と位置づければいいんです。その意味では僕にはそういう一時中断中のテーマがたくさんあります(笑)いつか死ぬまでには必ず再びチャレンジして、次こそは絶対成功させてやろうと思っているものがいろいろあり、もし次でダメでもまたそのとき一時中断すればいいと思ってます。その次でダメでもさらにまたその次でリベンジや!成功するまで何回でもやったるでー!とね。僕はよく言えば好奇心旺盛、悪く言えばいろんなことに首を突っ込みたがる性格で、そういうリベンジしたいことがどんどん溜まってちょっとアップアップ気味なのですが(笑)、そういうものを胸に秘めて日々生きていて、なにか別のことをやってる時にふと『お!このアイデアはあのテーマに使えるんじゃないか!?』とインスピレーションを得て試しにちょっとトライしてみたらそれまでまったくダメだったのにパーッと光明がさして道が開けた、なんていうときにはゾクゾクと鳥肌が立つような快感があったりします(マゾですかね?(笑))」
ここまで話をするとみんなクスっと笑ってくれました。
「そうやって考えれば、失敗なんてぜんぜんどってことないというか、普通の人たちでは知りえない知識を得、経験することのできない経験を積んで、そうやっていろんな問題を解決するための引き出しが自分の中にたくさん増えていってるんだと考えれば、たとえうまくいかなくて恥ずかしい思いや残念で悔しい思いをしたとしても、そんな一時の悔しさや恥ずかしさなんかよりもどんどんそういう引き出しが増えていったほうが全然いいと思いませんか?」
「これは日米をよく知る人達がみんな言うんですけど、『日本では失敗すると二度と立ち直れないような社会的ダメージを受けるのでみんな失敗をすごく恐れるけれど、シリコンバレーでは失敗(failure)は経験(experience)ととらえられてむしろ高く評価されるのでみんなどんどんチャレンジする』という違いがあります。 ほんとに実際そうなんですよ。シリコンバレーはこういうカルチャーだからこそ、あそこからは世界を席巻するようなベンチャーが毎年毎年続々と生まれるんです。 僕はシリコンバレーと日本の差ってここにいちばんあると思います。 ここが決定的にちがう。」
「しかしそこでみなさんはこう思うでしょう。シリコンバレーは素敵でいいかもしれないけど、 ここは日本だし、 僕らはなかなかシリコンバレーには行けないし、とね。大丈夫、少なくとも僕や僕の仲間や僕らと志を同じくする多くの人達は、ちゃんとみなさんたちの失敗を経験ととらえてポジティブに評価してあげます!僕らはみなさんより少しだけ先に生まれた人生の先輩で、僕らと同世代の人間や、世代は違っても僕らと同じような価値観をもって日本を活性化したいと思っているいろんな人々が、少しだけみなさんより先にこれからだんだん社会の中枢で重要な役割を担うようになっていくので、みんなで力を合わせてそういう失敗を積極的に評価してくれるような社会を作っていきます。ですからみなさんたちもぜひ後に続いてください。そういう想いの連鎖が世の中を変えていくんです。」
そしてこの答えの最後にこう結びました。
「そりゃあ成功したら最高だし、成功したことによって初めて見られる世界ってあるし、成功体験から学べることというのはたしかに多いですけど、僕の経験で言えば、それと同じかそれ以上に、失敗体験(いや、失敗じゃないので『一時中断体験』(笑))からも学べることはめちゃめちゃいっぱいあります。そしてそれ以上に人生において最も大事ななにかを得ることができます。こうやったらダメだ、こうなったらマズイ、という教訓を学べるのはもちろんのことですが、それ以上に、自分が苦しい時にほんとうに力になってくれる人が誰かわかったり、絶体絶命の時に救いの手をさしのべてくれる人に運命的に出会えたりとか、ほんとうに心から人に感謝する機会を得ることができるんです。普通にぼさーっと生きてたら『この人にはどれだけ感謝してもし足りないくらいありがたい、神様よりも大切な人』なんてなかなかできないですよ。みなさんのまわりにそういう人います?それがベンチャーをやるとそういう出会いをすることができるんです。環境や状況がそういう人間関係を創りだしてくれるんです。このような出会いはなにものにも代え難いと僕は思います。極論すれば、僕はそういう人と出会い、助けたり助けてもらったりしながら、そういう熱い想いと感謝の気持ちを分かち合うために必死こいて仕事をしているといっても過言ではないかもしれない。もうね、涙と鼻水が同時に出るくらいうれしいですよ(笑)僕はそういう出会いがあるたびに、誰もいないところで人知れず涙と鼻水とヨダレでズルズルになっとるわけです(笑)。」
「どうです、かなーり気が楽になってきたでしょう?(笑)」
ひとりでだいぶ長く話してしまって他の登壇者に申し訳ないと思ったけれど、ひょんなことから彼女たちにこういうお話をしてあげられて僕はとても嬉しかったし、彼女もにこりと笑顔を見せてくれました(と少なくとも僕にはそう見えました(笑))。そして彼女だけでなく聴衆も他のパネリストもみな満足気に明るい顔を見せてくれました(と僕にはそう見えました。ジコマンです(笑))。
実はこのイベントにかぎらずいろいろなところでスピーチやパネルに参加して質問をどうぞというと、ほぼ必ずといってもいいくらい同じような失敗についての質問が出ます。以前は、みんなそんなに失敗が怖いんやあ、と僕にはとても意外でしたし、そんな失敗ばっかり怖がってちょっと情けなくないか?とすら思っていたのですが、違います。僕は今では彼らの気持ちがよくわかります。
現代は古い価値観とこれからの未来の価値観との狭間で不安定に感じている人が多い時代です。なので、たしかに自分でやってみたい気もするけど、失敗したときにはいったいどんなことになるのだろうと失敗時のマイナスを計りかねて不安に思って聞いてくるんです。ライブドア事件などを目のあたりにして、ああ、本音を言いすぎてやんちゃをしてしまった人間はああやって社会的に抹殺されるんやあ、出る杭はああやって打たれるんやあ、と若者たちはビビりまくったわけです(僕らはこれを「ホリエモンショック」と呼んでいます)。なので失敗したときにどんなことになるのか、まあホリエモンほどのことにはならないにしても、失敗するといったいどうなるのだろう、とすごく疑問と不安にかられているのです。このホリエモンショックが若者に与えた悪影響はほんとうに大きくて、僕にとってはニクソンショックよりもリーマンショックよりもソニーショックよりもはるかに深刻で、なんとかこのショックを払拭しようといま躍起になっています。(ちなみにホリエモンのことは小学生のときから知っている中高の同級生で、堀江には何の恨みもありません)
また、一方でポジティブにとらえれば、マジで自分でやってみようかと思う子たちの絶対数が以前よりも飛躍的に多くなっていて、失敗のことを先輩に聞いてくるというのは、ある意味本気でやろうかと考えていることの裏返しでもあるからだと思います。その意味では、失敗について聞いてくるのはとても良い兆しだと今では考えるようになりました。もちろん、シリコンバレーはその先を行っていて、失敗=いい経験積めてやったぜ!という境地までたどりついているので、日本やアジアの若者も早くその境地に至れるようみんなを励ましたり(イベントへの参加やこのブログはその活動の一環です)、失敗しても大きな失望感を感じるヒマもないくらい次にやることがあって経済的にも空白の期間ができないようになって何度でも再チャレンジできるフェイルセーフ(失敗の被害を最小のものにする安全装置)の仕組み(僕らはそれを「セーフティネット」と呼んでいて、それはどういうものであるべきかをいま議論しています。)を作ったりして努力していきたいと思います。
僕ですか?・・・僕はどうせ失敗するなら派手に失敗してネタになるような失敗をしたい!と思っています(笑)。たとえうまくいかなかったとしても、おもしろくて笑ってもらえるようなものであれば、失敗(くどいですが一時中断です(笑))も「おいしい」とか思っているフシがあり、ひどい結果のときですらも「うわー、こりゃあまたネタができた」と楽しくなってニヤニヤしているという、「失敗界」でもかなり上位の、ランクで言えば大僧正のような悟りの境地に近づきつつあります(笑)
悟りに近くなってくると、失敗ですらも人生を彩るスパイスです。「いやあ、人生ってなかなかうまくいかんようにできとるなあ。楽しいなあ(^^)v」って。こうなったらもう人生最高に幸せです(笑)キャッシュフローの黒字化と資金が底をつくまでの時間との戦いで資金繰りについてギリギリの真剣勝負をし続け、成功したり失敗したり悲喜こもごもな経験を重ね続けた後には、きっとみなさんもこんな境地になれます。
人生は深いんですよ。
※この最後のくだりは半分冗談です。僕はまだ全然悟ってませんから!
Q:泰三さんにご意見いただきたくてメール差し上げました。IVSでは泰三さんの言葉に大変救われました。僕は関西の大学院生で、約2年間研究をしていました。僕がいただいたテーマ下では、自分(よくわからず悩むことをしていた)、教官(ちゃんと考えろ)、学生(とにかくちゃんとやれ)の板挟みで、結局何をするのか手元のことが不確かなままに徒に時間と心を消費してしまいました。僕がしていたのは悩むことなので、傍目には成果が無かったです、それは間違いありません。ただ気持ちの部分でサボったつもりはありませんでした。その後、退学を決め、療養を兼ねて1年間は本を読み、自らの足で立っている方々に(このように)話を聞きながら、就職活動をしてきました。今は変に悩むこともなく健康です。その都度の選択は自分でしたことなので、後悔も責任転嫁をする気もありません。不器用かもしれませんが、頑張れない性格ではないつもりです。しかし、やはりなかなか難しい状態が続いています。僕の状況はこのようなかたちですが、全員がそれぞれに理不尽さと戦っていると思っています。泰三さんから今も葛藤の最中にいる僕のような若者に言葉をかけてくださると嬉しいです
メッセージありがとう。
思い返せば僕も君と同じくらいの頃、いろいろなことがなにかとうまくいかず煩悶し、ふてくされ、世を恨み、最終的には鬱気味になってしまったことがありました。こんなはずじゃない、俺はもっとできるはず、でも何もやれてない、という忸怩たる思いがずっと心のなかにあり、なんで世の中はこんなに理不尽なんだろう、生きていくのは辛すぎる、と思っていた。なので、君は僕とはちょっと違うかもしれないけれど、なんとなく君の気持ちがわかるような気がする。
抽象的にしか書かれてないのでこれが的確なアドバイスかどうかわかんないけれど、たぶん君はいろいろと考えすぎて手が出なくなってるところがあるんじゃないかな。いろいろ難しく考えて手が出なくなるよりも、とにかく行動を起こし、なんでもいいからとりかかれるところから着手して、なんらかのアウトプット(考えたことややったことを形にして表現したもの)を出すということを心がけるべきだと思うよ。完成度が低いとわかっていても、こんなの全然不本意だと思っていても、とにかく形にして表現して世に出すということがものすごく大事なんだ。
社会に出ると痛感することになるけど、社会では、時間的な制約、使える資源(ヒト・モノ・カネ・情報)の制約など様々な理由によって、余裕をもって準備に完璧を期することができることなんかほんとうに稀で、あらゆる制約のなかでとにかく成果を出していかないとどうしようもないという局面がたくさんあるんだ。今までは時間がたっぷりあったかもしれないけれど、これからはほんとうに時間がなくなる。いくら真剣に悩んだとしても、どれだけ深い考察があったとしても、成果がなければまったくなんの意味もなさないというのが、シビアだけど現実なんだよね。
未熟でも未完成でもいいのでとにかくアウトプットを出し、フィードバック(他人からの評価)を受けてすぐに悪い点を改善、そしてまたアウトプット、さらに改善・・・というプロセスをどんどん回していくようにするといいよ。君にいま必要なのはそういうアウトプットを出す経験、つまり、中途半端でもなんでもいいからなんとか完成に持っていき、人が見聞きできる形に活動を表現し、他人にたくさん評価してもらう経験だと思う。そういう経験を積み重ねていくことによって、君の閉塞気味の状況はだんだん改善されていくようになると思うよ。
とっかかりさえできれば、今までうまくいかなかったぶん、すぐうまくいくようになるさ。俺もそうだったからよくわかる。
がんばれ!
仕事というものは、待っていてくるものではない、自分で作り出すものだと思っています。 -安藤忠雄(建築家)
仕事を決める条件
今回も就職についてお話しようと思います。しつこいですが、どうしても語りたいことがあるのです。
シンプルに考える
茂木健一郎さんもさかんにおっしゃっておられますが、新卒一括採用なんて何の意味もない、ただ企業の採用側が効率よく若者を採用するためにできた、高度経済成長期の集団就職の遺物にすぎないと思います。人は皆自分の人生は自分で決めるべきで、そういう決意ができた人間を企業は採用すればよく、そのタイミングは人それぞれなのだから、個人もいつでも誰でも自由に応募でき、企業もいつでも誰でも自由に採用できるようになるべきだと思います。「新卒は4月に就職しなければならない」という日本社会における暗黙の了解がどれだけ世の中に人と組織のミスマッチを生み出していることか。そこから派生して「第二新卒」などという言葉がありますが、なんのこっちゃです。
「第二新卒は新入社員研修などを受けているので、社会人として必要な常識やビジネスマナーを身につけてて教育コストはかからないうえに、通常の中途採用者に比べて若くてまだ特定の企業文化の影響を強く受けていないので御社色に染めやすいという意味ではめっちゃおいしいですよ」
なんていうリクルーターがたまにいたりしますが、そういう言葉を聞くとうーんと思ってしまいます。ひとりひとりにいろんな人生があり、それぞれに人生に対する真剣な悩みがあるはずなのにそのことを無視して大雑把にくくる無神経さ。こちらが欲しいのは個性的な一人の存在としての人間なのに、それをわからない鈍感さ。とても人事・採用のプロとは僕には思えません。僕はそんな感性の人に採用をまかせたくはないです。
僕は最近多くの若者に会っているので実感としてよくわかるのですが、いま日本には優秀な若者がほんとうにたくさんいます。たくさんいるにもかかわらず、企業が新卒一括採用という前時代的な制度を行っているかぎり、次の時代を切り開くような人間はそこからは生まれてこないと思います。それは若者が悪いわけではありません。彼ら彼女たちは、自分がやりたいと思うことを今すぐやってみたいというモチベーションと、新卒で就職する機会を逃すことによる機会損失と社会的なデメリット(若者諸君、実は機会損失もデメリットも全然ないんだぜ!)との狭間でものすごく悩んでいます。そのせいで彼ら彼女たちは大学3年生になるとほんとうはいろいろ動きたくても中途半端にしか動けず悶々としており、結局自分の未知の可能性をあきらめ妥協して4月に企業に入社していくしかないのです。皆さん、考えてみてください。一括採用制度を敷いている企業に入社する若者はほぼ全員、社会人になる前に一度あきらめや妥協を無理やり経験させられているんですよ!未来ある若者たちにこんな思いをさせ続けていていいんですかね!?いま世界は動いていて、そんなしょうもないことをさせている場合じゃないのに!
(目先の)効率が良いという名のもとに前時代の遺物を惰性で行い続けている企業が今日もまた彼ら彼女たちを抑圧しているのです。そのくせ、「最近の若者は自分でものを考え自分で道を切り開いていくことができない」とか「最近の若者は草食系で骨がない」とか、「最近の若者は・・・」なんて言うオッサンがいたらはったおしてやりたい!
僕は日本をほんとうに活性化していきたいのなら、若者たちを勇気づけて元気にしてあげることこそがいちばんの処方箋だと思っています。そのためには若者をスポイルするようなものを排除し、もっとのびのびと自由に行動できるような社会をつくることが大事だと思うので、若者をスポイルするその最たるものである一括採用制度などは、真っ先に変えていかないといかん!と思います。
一方、学生も、もっと自分の人生の進路を真剣に考えるべきだと思います。いや、もちろんみんな真剣だと思うんですが、正確に言えば最初から「どこの企業に就職するか」という選択問題として問いを立てて考えるのではなく、「自分は何をして社会で生きていきたいか」という問いが先に来るべきだと思うのです。現在は大企業だから有利とか、大企業じゃないと世界を良い方向へ変えられないということはない時代です。Yahoo!しかり、Googleしかり、Facebookしかり、数年でものすごく世界全体を変えてしまうようなことを起こすベンチャーが続々と生まれています。これらはつい数年から十数年ほど前にたった二人のチームから始まったものなのです。ご存知のとおり。もはや、大きな組織に属さないと大したことはできないという時代ではありません。ですから組織への就職ありきではなく、まず自分の志向ありきで考え、たまたまその志向にぴったりくる組織があればそこに就職を志願すればよいし、ぴったりくる組織が無いならば自分で始めてしまえばいいと思うのです。
うちの家族や親戚は歴史的な背景もあってたとえ能力があっても自分たちの望むような企業に就職できなかったそうで、特に親の世代は就ける職業や職種が限られていたということもあって、自営業の人が圧倒的に多い家系でした。いや、ほぼ自営100%だったかも。なので親戚などが集まると「おー、泰蔵くん。大きくなったねえ。いまいくつ?おお、もう大学4年生ね。で、仕事は何ばすると?」とよく聞かれていました。いま思えば、「どこに就職するの?」とたずねる人が誰もいませんでした。そういう家庭環境だったので、まずどこかに就職ありきではなく、何をして生きるのか、というのが先に来るのが自然な流れでした。それゆえ企業の新卒用の就職応募資料を手に入れるところから始まる就職活動というものについて最初から疑問に感じるところもあり、いわゆる大学生的就職活動に身が入らなかったんです。それで悶々としていたわけです。
子供に「将来は何になりたい?」と聞くと、「ケーキ屋さん!」とか「電車の運転手!」とか言いますよね。決して「不二家のフロントスタッフ!」とか「JR東日本の正社員!」とは言いません(笑)なのに、大学生が就職活動をするようになると、このギャグみたいなことをマジメに言うようになるわけです。
今の時代は世の中がすごく複雑になった結果、いろいろとややこしく考えすぎてうまくいかなくなってることが多いと思います。一方、変化が激しく既存の価値観が陳腐化してガラガラと崩れ、なにを指針にして生きていけばいいかがわからなくなってしまっている不安な世の中でもあります。そういうときこそ原点に立ち返りシンプルに物事を考えることがとても大事だと思います。そうすると、「どこの組織に就職するか」ではなく「何をして生きていくのか」から考えるということこそが、とてもシンプルで原点に立ち返ったアプローチだということに気づくはずです。
いい学校→いい会社→安定した生活→幸福という方程式
何十年ものあいだ、「いい小学校からいい中学校、大学進学に有利ないい高校を出て、いい大学に入り、いい会社(大企業)に入ることがいちばん生活を高いレベルで安定させることができ、そういう不安のない安定した人生こそがいちばん幸福である」と信じられ、そういう教育や価値観が日本の社会の大勢を占めてきました。
ほんとうにそうなんでしょうか?
僕でいえば、私立の中高一貫教育の進学校を出て東京大学経済学部を卒業しました。そこまではいわゆる高学歴と言われるものだったかもしれませんが、その後結局就職することなく自分で会社を始めてしまい、一般的に「エリートコース」とされるコースからはドロップアウトしてしまいました。自己破産を何度してもおかしくないくらい借金を膨大に背負ったこともあるし、なにもわからずに世の中に出てしまったため失敗ばかりで安定とは程遠い人生を過ごしてきましたが、それでもとってもハッピーです。いや、悔しまぎれでいってるわけではないですよ(笑)ほんとうにいま幸せだと心から言えます。
また、いわゆる高学歴・高評価の肩書きを持っている人たちは僕の周りにもたくさんいますが、だからといって生活が安定していていちばん幸せかというと、うーん、そうでもないというか(笑)、彼らは世の中でもっとも忙しい人たちであり、重大な責任を背負って昼夜を問わず激務をこなしており、いわゆる平穏な生活とは言い難いと思います(失礼!)。
さらに、いま大企業に勤めている人たちに聞いても
「いやあ、俺は大きくて安定感があって安心して定年まで一生勤め上げられるうちの会社が大好き!ビルはデカイしキレイだし、みんながうちの会社を知ってるし、人はいっぱいいるし、仕事の内容は上がきちんと決めてくれるからやりやすいし、ボーナスも給料の2ヶ月分とか決めてくれてるからローンも組みやすいし、就業規則もしっかりしてるからそれに則って普通にやってれば絶対減点されないし、少々サボっても会社に余裕があるからバレなきゃ大丈夫だし、すごい倍率の中から勝ち抜いてこの会社に入れた俺はエリートだなあって会社のロゴを見るたびに誇り高い気分になれて鼻高々だよ。自分はこの会社に勤めることが天職だったんだと思う。この会社に勤めさせてもらって天にいくら感謝してもし足りないくらい!これが名もない中小企業だったら不安で人生真っ暗だっただろうな」
なんて言う人を今時見たことがありません(極論です。そんな人はいませんよね(笑)いや、僕が知らないだけで結構いるのかな。こんなふうに会社を信じきってる人って今時まだいるんですかね?)
自分の主観や自分の周囲だけのサンプリングの結果を持って全体に敷衍して結論づけるのは科学的な姿勢ではありませんし統計学がまったくわかってないということになりますが、それにしてもこれまでの価値観がほんとうに正しいのかと言われれば必ずしもそうでもないんじゃないか、という直感を僕は抱いています。
いやいや、今はだいぶ違うかもしれないけど昔は実際そうだったんだよ、と言う方がおられるかもしれません。しかしそれもほんとうにそうだったんでしょうか?誰もが認める優良な大企業、たとえば就職人気ランキングで上位の人気企業に入った人たちはみんな良い思いをしたのでしょうか?就職人気ランキングは時代とともに変わっていきますが、たとえランキング第1位の企業に入れたからと言って、イコール安定、イコール幸せと言えたのでしょうか?昔でいえば造船会社や鉄鋼会社、鉄道会社が人気でした。20年くらい前は百貨店や広告代理店などが人気でした。しかしそれらの企業はいまどうでしょう?もちろん現在もそれなりの存在感を持っているとは思いますが、いまそれらの産業が世界でもっともホットな分野で、その中でも日本企業が世界をリードしていて、世の中を変えるような世界の耳目を集める話題をつくりだしていて、そこで働いている人々がイキイキとしていて世界を股にかけて大活躍しているかというと・・・そうとも言えませんよね。
企業30年説というのがあります。どんな企業も創業から30年もすれば勢いはピークアウトしてしまう、というものですが、これも統計がとられているわけではありませんが経験則的に実際そうではないかと多くの慧眼を持つ人々が感じています。理由としてはいろいろなことが言われていて、創業者が高齢になりかつての起業家精神の発露やダイナミズムがなくなるのが原因だとか、30年もすると様々な技術革新により市場環境が創業時と大きく変わり市場を動かすルールやパラダイムすら変わってしまうけれどもイノベーションのジレンマで成功体験が次のパラダイムへの早い適応を邪魔することなどが主要因と言われます。いずれにしても企業の寿命が30年程度だとすると、20歳前後で決めた就職先(おそらくその頃いちばん輝いているから魅力的に感じる、すなわちその頃がピークの企業だと思います)が、脂が乗って自分が一番バリバリ働ける40代やその組織の中枢で最も責任のあるポジションに就く50代に、最もエキサイティングで最も楽しい会社になっている可能性は・・・むしろ他の会社よりも低いのではないだろうかと思います。市場が縮こまり斜陽に向かいつつある市場で業務に従事するのは、ずっと右肩上がりで成長を続ける市場で急成長している企業の中で働くのに比べて、あんまり楽しくないのではないかと思うんですよね。はっきりいって。
人間ってすぐ環境に適応してしまうので、ほんとうは自分の今後のためにはこのまま居続けてもなにも良いことはない環境であっても惰性でそのまま過ごしてしまいがちですし、むしろそのことを考えないようにしようとします。「いや、そう言うけどさ、ここはここなりにいいところだしさ、僕は僕で結構楽しくやってるしさ、そんなに悪くないよ。うん」とか言ってごまかして生きることになるわけです。そう言ってはははと力なく笑って居酒屋でくだまいてるような人生は僕はまっぴらゴメンです(いやあ、いろんなところに敵をつくりそうだなあ(笑)以前はこういうことを言うのをグッとこらえて控えていたのですが、僕も四十になって不惑の年齢を迎え、和を乱してでも言うべきことははっきり言っていくことにしたんです!)。
そう考えると「良い小学校から中学校、進学に有利な高校を出て、良い大学に入り、良い会社(大企業)に入ることがいちばん生活を安定させることができ、安定した人生こそがいちばん幸福である」という命題は必ずしも正しくないと思います。
いや、もっと直截に結論を言いたいと思います。
「良い」学校から「良い」企業に入るというのは、人生の安定や幸せとは実は全然まったく関係がない
ということだと思います。あー、言い切ってやった。気分爽快。
仕事を決める条件
さて、こういうことを批判するのは簡単です。批判するときは対案をださないと。ではなにを基準または指針にして仕事を決めるといいのでしょうか。ふたたび現在の僕が当時の迷える若者である大学生の僕にアドバイスをするならば、奴にこのように言ってあげたい。
「君が仕事を決める条件としては、
- 自分がすごく好きなこと
- 時間を忘れるくらい没頭できててやってて楽しいこと
- いつもワクワクするような新しいことがその分野で起きていて一生飽きがこなさそうなこと
- その仕事を通じて人間としての成長がはかれそうなこと
- やるからにはNo.1になれるようなこと
の5つを基準に決めたら少なくとも後で後悔することは絶対ないと思うな。なぜ好きかどうかが一番大事かというと、好きだとそのことに無限に情熱を注ぐことができるでしょう?そうすると自分がいちばんユーザーの気持ちもよくわかるし、プロダクトやサービスはどんどん改良されていき、結果としていちばんユーザーに支持されるものを作り上げることができるんだ。それが、『やってる仕事はもちろんキライじゃないけれどあくまで仕事としてやってる』というかんじだとそこまでのレベルには絶対ならない。そうすると結局事業としてもうまくいかないんだ。だから好きなことをやるというのはビジネス的にいってもいちばん大事なことなんだ。それって最高だと思わない?『好きなことを仕事にすればいい』っていうすごくシンプルな原理なんだぜ。さあ、自分の中の好奇心のアンテナをめいっぱい伸ばして、好きなことを探しな。お前の就職活動はまずはそこからだ!」
あらためてもう一度強調したいと思います。
「好きなことを仕事にする」
これこそが仕事を決める上でなによりも一番大事なことです。スポーツ選手を見てください。音楽活動や芸術活動をしているアーティストを見てください。お店で活躍するシェフやパティシエを見てください。みなさん、自分の仕事が好きでたまらなくてイキイキと楽しい人生を送ってますよね。ほとんどの仕事って自分なりに創意工夫をしながらやることができれば好きで夢中になれる要素は絶対あると思うんです。みんなが自分の仕事を心底気に入って情熱を注いだとしたら世の中はもっともっと楽しくなると思うんですよね。そんな世の中のほうが、 疲れた顔をして満員電車に揺られて生きる人が大半を占めるような世の中よりも絶対いいと僕は思います。
僕がベンチャーをやることを推奨する理由のひとつはここにあります。そりゃあベンチャーをやってもなかなかそう簡単にはうまくいかないですよ。でもだからこそおもしろいんだし、課題を解決できてうまくいき始めたときの快感や高揚感はなにものにも代えがたいものがありますし、少なくともベンチャーやってる人たちは皆キラキラと目を輝かせイキイキとした顔をしています。
失敗したっていいじゃないですか。失敗したらしばらくどこか別のベンチャーを手伝えばいいし、また期が熟せば再チャレンジすればいい。組織に属するのは全然いいですけど、組織に依存せず自分の足でしっかり立って生きることによって、ああ、自分はいま生きている!という充実感を感じることができます。
そういう人生を送ると経済的にやっていけるか不安だと言うかもしれません。そこです。それが20世紀的な経済一辺倒の価値観なんです。お金よりももっと大事なものがあるだろう!と言いたい。いよいよ食えなくなったらどこかでパートタイムで働けばいいじゃないですか。それでも自分のやりたいことをやらないで自分をごまかして中途半端に生きるよりはずっといいと僕は思います。
失敗も不安も先立って心配してもしょうがないです。なったらなったときに一所懸命打開すればいい。それよりも勇気を持って飛び込んでみて道を切り開いてみることのほうがはるかに大事。大丈夫、だいたいはそんなにしょっちゅうは危機にならんから(笑)
と思いきり煽りまくって、最後に僕の尊敬する建築家の安藤忠雄さんの言葉を引用して今回は終りにしたいと思います。
「私は、人間にとっての本当の幸せは、光の下にいることではないと思う。その光を遠く見据えて、それに向かって懸命に走っている、無我夢中の暗闇の中にこそ、人生の充実があると思う。」
さて、さきほど失敗してもいいじゃないと言いましたが、みなさんもご存知のとおり新しい挑戦には失敗がつきものです。失敗はみんな怖いですよね。僕は、失敗そのものは全然怖くはありませんが、もちろん僕だって全然好きじゃないです(笑)この失敗というテーマについてもいろいろとお話ししたいことがありますので、次回は失敗とリスクについてお話ししてみたいと思います。
はたらくということ
今回もひきつづき就職についてもう少し掘り下げて考えてみたいと思います(僕は就職や仕事について考えることこそが、新しい産業やベンチャーの振興を考えるにおいてまずはいちばん大事なことだと考えているので、このテーマについてはしつこく書いていこうと思っています)。
仕事ってなんだ?
人生を彩る要素はいろいろありますが、 人がどんな人生を生きるかというとき、仕事は人生において占める時間がもっとも多いもののひとつですよね。その意味で、どんな仕事をするかというのはどんな人生を生きるかということと関係が深いことはまちがいありません。
では、私たちはどんな仕事をどんなふうにすればいいのでしょうか。
どんなふうに自分の仕事を決めればいいのでしょう。
そもそも、仕事ってなんなんだろう?
その問いに率直に答えるならば、仕事というのは一義的には「生計を立てるためにすること」だと思います。人はなんのために働くのかと問われるとまずはそう答えるものだろうし、実際多くの人がそのように答えるだろうとは思いますが、はたして現代の人間は生計のためだけに働くのでしょうか。
いいえ、それだけではないと少なくとも僕は思っています。
ただ生活費を稼ぐためだけに人生の大半の時間とエネルギーを費やし、本当に自分のやりたいことや楽しいことを行うのはそれ以外の余暇の時間、ということだとするとそれはちょっと寂しいなあと思います。どうせだったら自分の人生の大半を費やす仕事の時間さえも自分の好きなこと楽しいことをやり、朝から晩まで充実した幸せな気分でいられたら絶対いいに決まってるって思うんですよね。
そりゃあそうだけどさ、そういうふうに生きれる人というのは才能や経済的に恵まれたごく一部の幸運な人だけであって、自分もそうしたいけどなかなかそうできないのが現実じゃん、と言う人も多いでしょう。うん、僕だって単なる理想主義者の夢追い人というわけではないので、その意見もよくわかりますし、現実はそんなに甘くないということもわかっています。
それでもなお僕は働くということについてもっと深く考え、こだわりを持って生きるべきだと思っています。先に結論をいうならば、働くことを通じて楽しくて幸せな気分でいっぱいになるように仕事をするべきだと思います。
しかしながらたぶんとても多くの人がそのように幸せいっぱいには働けていないだろうという気がしています。時々は楽しいこともあるけれど、ほとんどの時間はつまらなかったり、時にはとても苦しかったりするような感じで仕事をしているのではないでしょうか。
僕はその原因として、現代社会のあり方というか経済観、そして現代人の仕事に対する考え方に問題があり、21世紀になって時代や環境はだいぶ変わりつつあるにもかかわらず、いまだに20世紀資本主義的な価値観をひきずってしまっているからだと思っています。
なぜそういうふうに言うかというと、僕はその分野に詳しい方々や書物などから江戸時代の江戸の人々の生活や価値観、とくに仕事観について教えてもらうことがあり、眼から鱗というかハッとさせられたというか、これまで自分が持っていた現代人の考え方(経済観・職業観・仕事観)が唯一無二のものではないということに気づかせてもらったからです。つまり比較対象ができたことにより現代の人々の考え方も所詮ひとつの考え方に過ぎないと相対化できたからなのです。
江戸人の働きかた
昔から「そんなの朝飯前だよ」という言葉があります。たやすく簡単にできることをよくこんな言い方をしたりしますが、 江戸人の「朝飯前」は意味合いがちょっと違ったそうで、「朝飯前」とは文字どおり朝ご飯を食べる前にする働きのことを言ったそうです。向こう三軒両隣に声をかけ、母子家庭、父子家庭、あるいは老人の一人暮らしの中で困ったことが起きていないか様子を見てその手当てをするのが 江戸人の日課でした。もちろんこれは浮世の義理で無報酬です。
そして朝ご飯を食べたら身過ぎ世過ぎ(生活)のために働いてお金を稼ぎます。これが今でいう「仕事」にあたるのですが、しかしそれも昼飯までには終えてしまいます。その意味では3~4時間しか働いていないことになるので江戸っ子はなんと気楽な人たちだろうという気がしますが、実際にはそうではありません。昼食が済んだ午後からは人のため町のために「はた(傍)をらく(楽)にする」働き、今でいうボランティアに精を出していたのだそうです。 江戸っ子は宵越しの金は持たないわ、ろくに働かないわ、浮世をのらりくらりと楽しく遊んでいたと言われることがありますが、実はそうではなくいろいろなことをして多彩に働いていたのです。ただ現代人とは働くということの概念が違っただけなのです。ちなみに人の評価は午後の「傍を楽にする」働きの多い少ないで決まったそうで、 地位や財産でなく自分以外の人や世間のために働くことに人間としての価値をみるような価値観だったといいます。
最近「プロボノ(各分野の専門家が職業上持っている知識・スキルや経験を活かして社会貢献するボランティア活動)」という言葉がさかんに言われるようになりましたが、そんな言葉を待たずとも百年以上もずっと前からそういう活動を江戸っ子たちは「朝飯前」にやっていたのです。もちろん朝だけでなく夕飯前にも。
そして夕方になると、夏などはみんなで一斉に打ち水をして明日も元気で働くために備えました。「あそび」に引っかけてこれを「明日備(あすび)」といい、リフレッシュ、レクリエーションの時間だったといいます。よく働きよく遊びストレスをためないというのが江戸の暮らし方だったようです。

僕はこの話を知ってから江戸人に対するイメージがガラリと変わりました。なんと洒脱な人たち、なんと素敵な働き方をしているのでしょう。庶民の知恵という言葉に象徴されるように、お上に頼らずみんながうまく生きて行くためにどうしたらいいかという工夫が巧みになされ、お互いが気を遣い助けあって生きていたきわめて民主的で共同体のつながりが豊かな社会だったのです。
傍を楽にする働きを通じてお互いに感謝しあうことで幸せを感じるような、そういう社会だったにちがいありません。きっと「いつもすまないねえ」「いいってことよ。こんなことくれえは朝飯前だからよ」というような会話が爺さん婆さんとおっちゃんおばちゃんとの間で頻繁に交わされていたことでしょう。僕はこのような光景が今の時代でも「朝飯前」だったらとても素敵だと思います。日本には今こそお手本にすべきライフスタイルやワーキングスタイルが実は古来からあったのです。
「働く」=「傍(はた)を楽(らく)にすること」
今述べたように、江戸人の働き方にはこれからの時代を幸せに生きて働くための大きなヒントがあるように思います。
- 「傍を楽にする」ことを心がけて働くことで幸せをダイレクトに感じることができる
- 「よく働きよく遊びストレスをためない」ということが健やかに幸せに生きる上でとても大事
ここでいう「傍」とは自分の周りのことですから、仕事でいえば職場の同僚や上司、パートナーなど一緒に働く人達のことを指しますが、「傍」を「楽」にするとはすなわち、そういう仕事仲間の負担を軽くするように楽になるように一所懸命下働きをするということを意味します。お互いがお互いをそのように思い合って感謝しあって働いたら、自分はみんなの役に立っているという手応えから幸せを感じ、そのチームはそれは素晴らしいパフォーマンスを出せるのはまちがいありません。まさにこの言葉一言でチームワークの極意をズバリ言い表していると思います。と同時に、この「傍」は仕事仲間だけでなく価値を提供する顧客のことも指していますので、自分たちが提供する価値によって顧客が「楽」になる、すなわちお客さんが便利で楽しい気分になって感謝してくれれば、それにともない自分も「ああ、喜んでもらえてよかったなあ」と充実感や満足感からとても幸せに感じることができるでしょう。「傍を楽にする」、なんてイカしたコンセプトでしょう!これって絶対現代にも通用すると思います。
ということで、君はなんのために働くのかと問われたとき、冒頭で僕は「生計を立てるため」というふうに答えましたが、そうではなく「傍を楽にするため」に働くのだ、というふうに言い直したいと思います。みんながお互いに傍を楽にするために働いたとしたら、絶対みんな生計を立てていくことはできるはずだからです。それにぐちゃぐちゃイチャモンをつけてくる人がいたら「べらんめえ!しゃらくせえ!」と言ってやりたいと思います(笑)僕は九州男児で、江戸っ子じゃありませんが(^^)
また、よく働いたらおもいきり遊んで、そしてまたおもいきり働く、ということがとても大事ということは僕もとりわけ強調したいと思います。なぜかというと、現代は高度かつ複雑な社会になっており、統治機構も仕事の内容も仕事の分業も高度に進んだ結果、わかりやすい仕事の成果が見出しにくい世の中になってしまったからです。仕事の成果が見出しにくいということは、どこが始まりでどこで終わりかがわかりにくい、つまりいつ区切りをつけていいかわからないということにほかならず、いつもスッキリせずストレスが溜まりがちです。そうやってストレスを溜めたまま次の仕事、さらに次の仕事というふうに積み重なっていくとそのストレスは古層のように堆積して最終的には人の精神を蝕んでしまいます。
それに対する対策は二つ。①この仕事はなんのためにしているのかを常に問い、成功・失敗の定義を必ず定めてから仕事をすること、②マイルストーン(仕事の課程の中間目標)を達成したらイエーイ!とそのポイントごとにそこでおもいきり遊ぶこと、だと思います。
昔は、ストレスや不安など嘆いたり困ったりする原因や行為そのものを「気の毒」と呼んだそうです。反対に気を病みそうな人には、それとなく助言したり安心させたりという思いやりのしぐさや気遣いを指す「気の薬」をあげたそうです。そういう言葉があるくらい、江戸人たちは精神的なストレスや病に対して細心の注意を払い気をつけるようにしていたようです。
僕は無学の頃、人間も社会も時代と共に必ず進化するものだ、つまり世の中というのは時が経てば経つほど昔よりも改善され良くなっている、というふうになんとなく感覚的に思っていました。しかしながら実際は全然そうでもなく、昔のほうが現在よりもはるかに優れていた例は枚挙にいとまがないということを知りました。
20世紀は科学技術の大きな発展、工業の発展による世界規模での大量生産・大量消費社会の形成などがある一方、戦争の大規模化や環境問題など様々な問題が深刻化した時代でもありました。いま多くの人々が感じていますが、あまりにも経済一辺倒に傾斜しすぎた価値観が様々な不安感や不幸感を募らせる原因となっています。といっても、今までの価値観の中でそれができないから妥協するとかあきらめるということではなく、それにかわるもっと魅力的で楽しい価値観とライフスタイルを創りだしていくことでその不安や不満・不幸を乗り越えていければと思いますし、その具体的な例を創りだしていくことが起業家の社会的な使命のなかでも最も崇高な使命のひとつではないかと最近考えています(ちなみに雇用の創出なども起業家・事業家の社会に対する大いなる貢献で、他にもいくつかありますがそれはまた後に解説します)。
そのブレイクスルーとして江戸の社会や江戸人の価値観は大いなるヒントになると僕は思います。宵越しのカネなんかなくたって生きていけるし、長屋にはプライバシーなんかなかったけれどそのぶん隣人との関係はとても暖かかったし、衛生観念もしっかりしていて町はきれいでエコだったし、江戸人の就業観・仕事観のほうがあきらかに現代人よりも優れていると思います。
閉塞感でいっぱいの今こそ、ITなどの最新技術や世界の最新事例などを活用したりしながらも、一方で日本の素晴らしい伝統からのインスピレーションを温故知新で活用し、新しいライフスタイルやワークスタイル、価値観を創りだしていくべきだと考えています。これまでの制度、社会構造、産業構造、経済構造の一部は明らかに陳腐化して時代遅れとなっており、このまま放置しておいて良いはずがありません。
僕はよく海外に行く(というか1年の半分ほどは日本以外の場所にいる)ので、日本を見て良いところ悪いところを客観的に相対化することができると思うのですが、日本は清潔で技術も進んでいてインフラストラクチャもとても充実している一方、決定的にダメだと思うのは人々が自信を失い、不安に駆られ元気がないことです。ずっと日本にいるとわからなくなってしまうのですが、海外から戻ってくると一目でわかるくらいそのことは明らかです。それがいつもとても残念に思います。なぜアジアやアメリカ、ヨーロッパに行くと日本よりもインフラはひどいのに、あちらの人達のほうがイキイキとしているのだろうかと不思議に思います。日本人は本質的にはなにも落ち込む必要がないのに。私たちが閉塞感や不安、不満を感じているのはこの陳腐化した制度や構造が放置されたままなかなか変わらないことに起因すると思います。これを何とかしていかないと、今は全然ダメじゃないけど、いつかほんとうにダメになるんじゃないかと心配です。
ともかく、働く=「傍」を「楽」にする、このアイデアを気に入った人はぜひいろんなところで話題に出してみんなでシェアしていくところから始めましょう。日本人(日本語を熟知している人)なら誰しもがピンとくる言葉ですから!
ミラ・ナイールに教わった生き方
数年前、ミラ・ナイールさんという女流映画監督とご縁があって一緒に仕事をさせてもらったことがあります。彼女は「サラーム・ボンベイ!」でカンヌ国際映画祭カメラドールを受賞、「モンスーン・ウェディング」ではヴェネツィア国際映画祭金獅子賞(グランプリ)を受賞するというたいへんなマエストロ(巨匠)でいらっしゃいます。
ある日、ミラさんのニューヨークのオフィスでチャイをふるまっていただき、くつろぎながら2時間くらいいろんなお話をしたのですが、たまたま共通の友人との昔話に始まりお互いどんなことをして生きてきたか、これからどんなことをして生きていこうと思っているか、みたいな話をする機会がありました。そこでミラさんは次のようなお話をしてくださいました。

「私のインドの生まれ故郷 − オリッサ州のブバネシュワルというところなのだけれど − では、人は人生を3回生きなければならないの。最初の人生は自分が何者かになるために必要なことを学び、ひとりの人間として生きる人生、2番目の人生は自分が選んだ道を究めて何かを成し遂げる人生、そして最後の人生は、自分が得たものすべてを人々と分かち合い、人々のために全てを捧げる人生なの。次の人生を迎えるたびに生まれ変わるための盛大な儀式があって、それを経るとまったく新しい人間に生まれ変わるのよ。」
「私ももうすぐ3番目の人生を送るために生まれ変わるの。次の人生では私はアフリカで子供たちのために学校を作り、いろいろなことを教える教師になるのよ。もちろん映画も教えたいと思ってるわ。そうなったらきっともう映画は自分では撮らなくなるだろうからちょっぴり寂しい気もするけれど、寂しさよりも喜びのほうが大きいし、そうでないと生まれ変わった意味がないから。もう準備に入っているのだけれど、ほんとうに楽しみだわ。」
3つの人生を生きる。
なんて素敵な考え方、なんて素晴らしい生き方をブバネシュワルの人たちはするのだろう、と雷に打たれたような衝撃とその後おとずれた深い感銘に身がうち震えるような気分でした。それまで人生をそんなふうに過ごすというアイデアに出会ったことも思ったこともありませんでしたから、彼女の生き方にすごくびっくりしてしまいました。
実際、僕はこの考え方にいまだにとても影響を受けています。僕はブバネシュワルの人ではないけれど、彼女を見習って自分もそのように生きようと決意するに至りました。もう40歳になり2つ目の人生も半ばを過ぎていますが、今からでも遅くないのでこの人生の中で何かを成し遂げ、もしうまく生きていられれば、それまでに培ったものすべてを分かち合いすべてを捧げる3つ目の人生の準備をしようと思っています。
マンハッタンの古いビル群が一望できる彼女のオフィスで、100年以上屋上にヒッソリとたたずむ木造の給水塔の群れを眺めながらこれからについて楽しそうに語り静かに微笑むミラさんが、僕には女神のように神々しく輝いて見えました。その光景そのものがまさに映画のワンシーンのようで今もとても鮮明に覚えています。

ミラさんに教えていただいた人生の過ごし方をほんとうに実践するかどうかは別としても、長いようで短い人生を有意義に過ごすにあたってとても参考になる考え方だと思いませんか。 どう生きるべきかなんて普段そんなに考えることではないけれど、目先のことや下ばかり見てないで、時には大きな視点で人生を捉え空を見上げてみると、そこには素晴らしい青空が広がっていることに気づくことができます。
彼女にはどれだけ感謝してもしたりないくらい僕にとって素敵な出会いでした。
ミラさん、ありがとう。
今の僕があるのはあなたのおかげです。
Q:就活ブルース読みました。4月から4回生になる就活中の関西の学生です。とても共感いたしました。僕も2回生のころにある経営者の講演を聞いて、世の中の問題を解決することに情熱を注ぎたいと感じました。しかし僕も泰蔵さんのように何がやりたいのか分からないし、何もできないことに気づきました。その解決方法が毎日図書館に行って本を読むという、今考えたらすごくもったいないことをしたなと思いました。(もちろん13歳のハローワークも読みました)学生団体や青年支援のような団体にも顔を出したりしましたが、僕含め、今の学生には知見を広げる機会とういものが少ないのではと最近問題意識を持っています。大学で遊んでるだけじゃなく、世の中にはもっと面白いことがあるんだよって、そのきっかけだけでもあればと思いました。
感想をくれてありがとう!
毎日図書館に行って本を読むっていいじゃない。まあ何の本を読むかにもよるけれど。学生時代というのは日本では伝統的にモラトリアム(社会に出て一人前の人間となることを猶予されている期間)の時期というふうに位置づけられてることもあり、社会に出てからではなかなかできないことを学生のうちに何でも思いきりやっとくというのは悪くはないと僕は思います(もちろん、なにもしないでただボーッとしてるとか、しょうもないバイトに明け暮れるとかいうのではまったく意味がないというか愚の骨頂だと思う)。せっかくの学生時代なんだからおもいきり楽しんでください!
うん、今の学生にかぎらず、今も昔も学生が大学以外で知見を広げる機会を提供してくれる仕組みというものはあまりないかもね。そういう問題意識を持ったのであれば、君だけじゃなく他の学生も同じように思ってるだろうから、君のためにもみんなのためにも「世の中にはもっとおもしろいことがあるんだよ」っていうきっかけになり知見を広げるような企画(いろんな分野のすごい人をお呼びしてお話ししてもらう勉強会とかいろんな仕事をみんなで見学しにいくイベントとか)を仲間とともに自分たちで企画してみたらどうでしょう。足りないものや不満があれば自分たちで解決していけばいいと思うよ(^^)
がんばって!
就活ブルース
僕は一度も就職を経験したことがなく、自分で起業し人の起業を支援するという、一貫して就職よりもベンチャーを自分でやってみることを推奨しているような人間なのですが、そんな僕が今回は就職のことについてお話をしてみたいと思います。
就職したことはないとはいえ、就職についてまったく考えなかったということはありませんでした。僕の場合それは1995年の暮れのことでした。今もそうですが当時も「就職超氷河期」と言われており、学生は就職活動に汲々としており僕も悶々とした日々を過ごしていました。氷河期においても同級生たちが官公庁や商社、銀行、コンサルティング会社などきらびやかな組織や企業に次々に内定を決めていくなか、僕は内定まったくゼロ。友達が内定を何個もらったかを自慢しあっているとき「お前は?」と聞かれて「いや・・・ゼロ・・・」っていうと「えっ!?」という怪訝な顔をされ、「どこを受けたの?」と聞かれて「いや・・・就活してない・・・」っていうと「えっ・・・」とドン引きされるような始末でした。実際、就職活動をまったくしていませんでした。なぜかというと、就職活動をして入りたい企業がなかったからです。いえ、それは正確ではありません。自分自身が何がしたいのかがわからなかったのです。何がしたいのかがわからないのに、面接会場で「当社を志望した理由は?」と聞かれても「いやあ、わかりません」としか答えられない。それでは企業に絶対採用されるわけないし、その企業に対して失礼きわまりないと思っていたからです。また、「あなたは何ができますか?なにが得意ですか?」と聞かれても、えっと・・・得意料理といってもオムライスくらいしか作れないし・・・いえ、何もできません」としか答えられないと思っていました。自分にできること・・・なんもないなあ・・・あれ?俺って20歳過ぎてるのになんにもできんやん!と愕然とするばかりでした。
父はいつも「泰蔵、お前も男に生まれたんやったら大きな志を持って熱く生きらないかんばい!」と言っていました。そのときは「はあ。」とわかったようなわからないような生返事か、「うん☆」という全然わかってない無邪気な応答しかできなかったのですが(笑)、少なくともこれだ!と自分の一生を捧げてもいいと思うようなことを見つけてたゆまぬ情熱を注いで熱く生きてみたいとは思っていました。
伝説のバンドThe Blue Heartsの「ラインを超えて」という曲の歌詞に「満員電車の中 くたびれた顔をして 夕刊フジを読みながら 老いぼれていくのはゴメンだ」という一節があります。当時、そうなるのだけはほんとうにイヤでした(もちろん、今もまっぴらゴメンですが)。社会人になる=社会の歯車になると本気で思っていました。歯車になんかなってたまるか、と(若いってバカでいいですね(^-^))。一方で、机の前に座り、計画を練るだけで、一歩も動かないで老いぼれていくのもゴメンでした。
とはいえ、なにができるわけでもない自分に、なにができるのか。
そもそも僕はいったいなにがしたいんだろう。僕の好きなものってなに!?
どれだけ悩んでも、どれだけ考えても、答えはいっこうに出ませんでした。今思うとバカなことを悩んでいたなあと思います。もし現在の僕が当時の僕に会えるなら、次のようなアドバイスをしてあげたいです。
「君の今の薄っぺらい中身でどんだけ考えてもその問いに対する答えは出ないよ。だってインプットが全然足りないんだもの。たとえば世の中にはどんな解決すべき問題があって、それに対してどんな解決策が模索されていて、 どんな組織や企業がどんなアプローチでその問題に取り組んでいてどんな功績を挙げているのかなんて知らないでしょう?そういうことを調べたりするといろいろな発見があってすごく楽しいし、自分の職業観も変わってくると思うよ。
また、 いろんな分野で活躍している方々にどんな夢を持ってどんな仕事をしているのかなどの話を聞いたりしても得られるものはものすごく多い。世の中にはこんなにすごい人達がいるんだ、くよくよ悩んでる自分なんて小せえなあってきっとたくさん感動すると思う。
自分は何をするべきか、何がしたいのかなんて内向きに考えたってそもそも今の君は中身がスカスカなんだから時間の無駄だよ。そんなことよりも、自分の視野を広げ、中身を濃くしてくれるようなインプットをまずはこの時期にたくさんしないと。それがたくさん蓄積されれば、おのずと自分が興味のあることが必ず見えてくる。もちろん、ちょっと興味のあることが見つかったとしても、だからといってすぐにそれができるようになったりするほど世の中甘くはないけれど、『カバン持ちでもなんでもいいから手伝わせてください!』と、思いきってその道の先人を頼ってその世界に飛び込んでみればいい。高い問題意識を持って一所懸命やっていれば、かならず道は開けるから。
学生のあいだは親や周囲が用意してくれた仕組みに則って生きてきたと思うんだけど、そもそも自分の人生っていうのは自分で切り拓くものなんだ。それが社会人ってもんなんだ。とにかくまずはインプット。それを徹底的にやってみな。例えば『1年間で100人のいろんな道のエキスパートに仕事の話をおうかがいする』という目標を定め、それを徹底的に実行するとかね。そういうことを自分でやっていけば、新卒一括採用の就職活動に乗っかることなんてどうでもよくなってくる。企業から内定もらえるかどうかなんて焦る必要はないから、そういう自分流の就職活動をしてみなよ。そっちのほうが就活に汲々とするよりもよっぽど楽しくて得るものは大きいぜ。
そうそう、 NHKがやっている「プロフェッショナル 仕事の流儀」なんかを全部観るのもすごくいいよね。たしか200回ぶんくらいあるけど(笑)、自分の人生の進路を決めていくんだからそれくらいの努力をしたっていいじゃない。それから、この村上龍さんが監修した本「13歳のハローワーク」もすごくおもしろかった。中学生向けに書かれた本だけれど、現在の僕ですらハッとさせられることがたくさんあったな。」
まあ、これは僕が若かりし頃の自分に対してのアドバイスなので結構無茶なことも言ってますが(笑)、でももしタイムマシンに乗ってそうすることが可能ならほんとうにそう言ってあげたいなと思います。社会未経験の若者にとってはレールに乗っかってないとすごく不安かもしれないけれど、レールに乗らなくったってどってことないし、むしろ自分の人生を自ら切り開いていったほうがよっぽどワクワクドキドキ充実して楽しいよ、ということを伝えてあげたい。
と、これまでの経験から僕はそんなふうに思っているわけなのですが、そう思うに到るには僕の尊敬する素晴らしい方々からの素敵な教えがあったからこそなのでした。
次回はそのことについてふれてみたいと思います。
スーパーマリオとバックパッカー
「会社を経営していくのはそんなに簡単なものではないし、だからこそおもしろいし、うまくいったときにみんなで分かち合う喜びは何ものにも代えがたいことは言うまでもないことだけど、それなりにひととおり経営を経験してきた僕としては、いったい今後何を目標にすえてがんばるといいのだろう。ひとつの会社を大きくすること?それとも分散型のグループ経営?ゴーイング・コンサーン(企業が永続的に事業を一貫して継続すること)としての礎づくり?それともゼロから新たに作った会社のIPO?CSR(Corporate Social Responsibility=企業の社会貢献活動)のような社会的意義?そもそも、俺はなんのために会社を自分でやってみようと思ったんだっけ・・・?」
これがここ数年の僕の経営者としての悩みというか迷いでした。
だいたいこういうふうに悩んでいるときというのはいろんなことがうまくいかないんですけれども(笑)、このような無邪気に事業を始めた頃には感じることのなかった深い悩みを乗り越えた暁には、これまでの自分よりも誰よりも強い意志と信念をもって突き進むことができると思うので、ここは避けて通らずに真正面からぶつかって乗り越えなければならない局面だと感じていました。
そういう理由もあって、究極の経営ってなんなんだろう、とあらためて今考えることが多いんです。もちろん、そんな一言で言い表せるようなものではないのかもしれませんが、それでもそんなことについて考えずにはいられない自分がいるのでした。
パイロットとしての3つの成長ステージ
そんなとき、ふと兄の正義が昔言っていた言葉を思い出しました。
「会社の経営っていうのは飛行機を操縦するのに近いところがあるよな。大空を駆け巡りたいという夢に始まって、最初は小さなセスナ機をパイロットとしてヨタヨタしながら一所懸命自分で操縦してうまく乗りこなせる様になることがおもしろい時代、次は副操縦士や管制塔の仲間とともに規模も責任もより大きなジャンボジェット機を組織的に操縦することに喜びを感じる時代、最後は何年もの大掛かりな準備の末にロケットを宇宙に飛ばして成功させるNASAのリーダーのように社会的インパクトの大きいプロジェクトを率いて成功させることに喜びを感じる時代というようにね。当然時代を経るにつれ難易度が高くなり、最後はもはや自分で操縦するということにこだわらずに組織を率いることがメインになる。必要とされるリソースも桁違いに増えていくし、関わる人員も大がかりになり、見なければいけない計器類もセスナとロケットでは比べものにならないくらい多くなる。スタートアップと大企業とでは見なければならないパラメーター(経営上の指標)の数が全然違うのもまさにそれと同様だ。セスナの操縦は大空を飛びたいという個人の夢から始まるが、最終的には未踏の宇宙へ飛び立つという人類の夢を実現すようなレベルに夢のレベルが昇華していく。会社の経営もそういうところがあるんだよな。」と。

そうか、セスナもカッコイイけど、NASAはもっとカッコイイ。経営ってすごいことなんだなあ!と、東京大学経済学部経営学科を出ても経営ってなんなんだ?とさっぱりイメージがわかなかった僕でも、そのとき初めて経営の役割というか意味というものをすごく具体的にイメージすることができました。
そしてそう言われると、事業規模の大きな、構想のスケールの大きな事業を成功させることこそがすごい仕事のように感じます。もちろんそれは非常に魅力的な仕事です。やっぱり、より社会的な意義の大きいスケールのデカい事業に挑戦していくことこそが、僕の次におくべき目標なのかな・・・誰がなんと言おうとも実際に実現した人にしかわからないすごい世界があるんだろうなあ、やっぱそれってすごいよなあ・・・とその時しみじみと思ったことを覚えています。
人生はスーパーマリオ
それから、次のような話も思い出しました。
僕が会社を始めた当初、会社の経営がうまく行かずに資金繰りやチームをまとめることに四苦八苦して絶望しそうになっていたとき、彼はこう言いました。「泰蔵、辛いやろ。苦しかろう。ばってんお前は今いい経験をしよるとぞ。その苦労や経験は必ず実となって今後お前の人生に絶対に役に立つ。」
「ひとつ話をしてやろう。人生っていうのはな、言うてみれば、スーパーマリオみたいなもんなんだ。最初は下手くそなので1面のザコキャラの亀(ノコノコ)にだってすぐやられるし、雲にだってうまく乗れない。それがだんだん習熟してボスキャラのクッパのところまでたどり着けるようになり、そこで何度も失敗して挫折しそうになるけどそれでも何度も挑戦した結果、最終的にピーチ姫を助け出し1面をクリアできるようになるよな。そうしてやっと2面に行けるわけだけれども、2面は2面でまたさらに難しくなっていて、そこでも何度も失敗して、努力と工夫と訓練の結果ようやくクリアできるようになる。その繰り返しで3面、4面とクリアできるようになっていく。今のお前はいかにも俺に助けてほしそうな顔をしていて、でもそれを言い出せずにいるようだけれども、最初に言っとくけど俺は助けてやらんよ。お前の前に立ちはだかっている困難は、かつて俺も経験した道やし、助けてやるのは簡単よ。ばってん、それをやったらお前のためにならん。1面もまだクリアしたことのないお前に、『そこの土管から3面にワープできるぞ』と教えてやるのは簡単やけど、そこでワープしたところで、今のお前の実力では瞬殺される(笑)1面、2面とたいへんな思いをしてクリアしてきて3面で失敗したらすべてがパーになるとしたら痛手は1面よりもはるかに大きい。最初のうちの失敗は何度失敗しても大したことにはならんけど、だいぶ後になって規模が大きくなってからの大失敗は致命的になる。今お前を助けてやって『必ず経験しておくべき失敗』をせずにやり過ごしてしてまい、後になって致命的な失敗をしてしまうようなことになってはお前のためにならん。だからそう言っとるんやぞ。困難に目を背けず、苦労から逃げず、誰に対しても一切の言い訳をせず、正面から堂々とぶつかっていって、なにがなんでも自分で何とか解決せい!」と気合いを入れてくれました。
今の自分から見ればたいしたことはないちょっとした社内のギクシャクや資金繰りのショートに、いろんな人の期待を裏切り、こんなに他人に迷惑をかけ、こんなに仲間が仲違いをするような原因(会社)を作り出してしまってほんとうに情けないやら申し訳ないやら、もうお詫びに俺は死んだ方がましかもしれん、と、今では冗談のようですが当時はかなり真剣にそう思っていた僕(若者って繊細でいいですね(^-^))に、そっかー、スーパーマリオみたいなもんかー、と身近な例を出して励ましてくれてなんだかとても気持ちが明るくなり、なんとか苦境を乗り越えていけたことを覚えています。
そして、そう言われると、僕はまだ1面すらもクリアしたかしてないかくらいだから、とにかく2面、3面とクリアできるようにがんばるぞ!、と思うのは自然なことでした。10面とか15面っていったいどんな世界なんだろう!?いつかその世界を見てみたい!とワクワクしていました。
スーパーアルピニスト
さて、この二つの話の背景には、次のような共通の考えがあると思います。
事業(企業)には成長のステージがあり、ステージごとに必要とされるマネジメントが違い、経営者はそれぞれのステージごとに必要とされる能力やノウハウを事業の成長ともに身につけていかなければならない
僕は事業家として事業の創造・経営を通じて社会に貢献しつつ、自分自身、人間的な成長を遂げたいということを個人的な生きる目的のひとつとしてきましたので、上記のような話はすごく自分に刺さったし、幾多の経験を通じてかならずやそういう経営者としても人間としても大事な能力や見識、ノウハウ、人間性を身につけるぞと思ってやってきました。
検証していないので断言はできませんが、 このような考え方はひょっとしたら日本独特の発想に由来するかもしれません。何事にもその技能を究めることを通じて人間的成長や哲学をそこに見出そうとする「道」の概念は日本特有です(例:武道や茶道など)。上記のような考え方はある意味「事業家道」とでもいうべきものかもしれません。
一方、これとまったく違う考え方で問題を解決しようとするのがアメリカのベンチャー企業経営です。成長ステージによって必要とされる能力やノウハウが違うという認識は共通なのですが、そこで既存の経営者に成長を促すというよりは、ステージごとにその局面にふさわしい能力を持っているプロの経営者をアサインするのがよい、という考え方をします。
この違いを山登りに例えると、孫正義が紹介してくれた考え方はエベレストのような最高峰に単独で登頂してしまうような「スーパーアルピニスト」的な発想であり、アメリカのベンチャー企業経営はプロのクライマーたちによって構成されたチームが組織的に登頂を目指す「チームアタック」的な発想であると思います。どちらも一長一短あるわけですけれど、僕個人としてはスーパーアルピニストの能力を持ってチームアタックできるようになるのが理想だと考えています。そりゃそうだ、イイトコどりですもんね(笑)
スーパーアルピニストとプロクライマーによるチームアタックのイメージ
左の写真は僕の尊敬する栗城史多さん。彼はiPhoneとUstreamでLive中継しながら単独でエベレストへの無酸素登頂に挑戦しているとんでもないスーパーアルピニストです。彼のお話はほんとうに感動的でおもしろいので今度ご紹介します。
バックパッカーパラダイム
さて、ここからが本題です。
これまではこの二つの考え方の二項対立だったのですが、
それに対して最近ではそのどちらとも違うアイデアが自分の中にあります。
たまたまこれまでたくさんの企業の栄枯盛衰を身近でものすごく早いサイクルでたくさん見てきたのでこのような考えに至るようになったのかもしれませんが、企業には社会のなかで役に立つ「旬」とでもいうようなものがあって、その旬を作り出せればたとえその企業が使命を終えて終了したとしても意義は大いにあったのではないかと考えているふしが最近自分の中にあるのです(一方、300年もの間永続的に進化・発展しつづける組織を作るにはという研究グループにも入っていて、本気でそういう組織をつくるための研究をやっていたりするのも自分の中で非常におもしろい対比になっています。これもまさにスーパーアルピニスト的な考え方だと思います)。
なにかおもしろい発想を思いついたらカジュアルに起業し、規模の大小を問わずその企業の「旬」に何かしら社会に貢献できればいいじゃないか、そしてもしその使命を終えたなあと思ったら、カジュアルに終わらせてしまえばいいじゃないか、という考え方です。
これも同様に登山に例えるとするならば、スーパーアルピニストでもなく、プロのクライマーチームでもなく、「バックパッカー」とでも呼んだほうがよさそうです。エベレストとかマッターホルンだけが山じゃないじゃん、富士山とか高尾山とか世の中にはいろんな山があるしそれぞれに魅力的じゃん、そこもみんなで登っていこうよ、それはそれで得られるものは小さくないじゃん、という感じ。最近のITのスタートアップ、特に「リーンスタートアップ」と呼ばれるベンチャーの中にはこのアプローチに近いものも多いと思います(もちろんそうでない人たちもいます。リーンスタートアップについてはまた後日お話したいと思います)。

スーパーアルピニスト型の経営とバックパッカー型の経営とでは当然違いがあるはずです。それが具体的にどう違うのかは、まさに自分も実践しつつただ今研究中で、アイデアがまとまったところでぜひまたシェアさせていただきたいと思っているのですが、ここでひとつだけ言えることは、バックパッカーのほうがスーパーアルピニストよりも敷居が低い、つまり多くの人が参加できるということです。それがバックパッカー型の最大の美点です。
世の中を少し良くすることで自分がコミットする/できることがあれば関わる。好きで楽しいことだから食えるならそれで一生食っていってもいいと思っているけど、必ずしもそうじゃなくてもいい。失敗してもたいして大きな被害はないし、具体的なアイデアが浮かんでできそうだと思うのでやってみよう、というくらい良い意味で気楽にスタートできるバックパッカースタイルのベンチャーの起業って、これからの時代は大いにアリだと思うのです。また、できる人、いろいろやってみたいという好奇心旺盛な人はひとつじゃなく複数同時に登ってもいいと思います。
アルプスやヒマラヤのような最高峰を登山してはいないけれど、ものすごくたくさんのベンチャーが、自分にとっていちばん大事な山の山頂を目指して無数に登頂すべく日夜必死に取り組んでいる、という光景。
これを徹底的に推進し、群れ全体で社会的な意義を問うような経営、それこそが究極の経営なのかもしれない。そしてその経営者の姿はもはやいわゆる「経営者」と呼ぶようなものではないのかもしれない。もちろんその人はその仕事・役割を一人でやっているわけではないだろう、とそんな着想を得て新しい起業・企業の在り方について研究を始めたばかりというのが僕の現在です。
ちなみに、僕はバックパッカーだけを賞賛し、スーパーアルピニストやプロチームを否定しているわけではありません。この三者が入り交じって豊かなベンチャー関係者の層の厚みと文化を創りだすことがいちばん素晴らしい姿であると思っています。先に述べたとおり、ひきつづき僕個人としてはスーパーアルピニストを目指して日々精進していこうと思っていますし、それと同時にバックパッカー型起業もいま準備しています。
いや、ピーチ姫を助けるべく一所懸命がんばるスーパーマリオのほうが自分的にはピンと来るな(^^)
※スーパーアルピニストとバックパッカーの喩えは僕の尊敬する田坂広志さんに社会起業家のあるべき姿というお話の中からご示唆をいただき、自分なりに解釈してふくらまさせていただきました。この着想をいただいた田坂さんに心から御礼を申し上げたいと思います。ありがとうございます。

